「再発の恐れが大きくてもいい、小さく切って欲しい」。余命半年と宣言されたあるがん患者の望みである。そしてその通りの手術を受け、5年も生き続けて昨年世界一周を成し遂げた1人の女性のドキュメントを見た。

 これもまたサクセスストーリーである。テレビは、「再発の恐れが大きくてもいい・・・」と宣言した彼女の生きるという信念が、現在まで生き続けている原動力であるかのような伝え方をしている。

 「病は気から」という俗説を知らないわけではない。生き続けたいと願う心が病気の進行になんらかの影響を与えるという話を聞いたこともあるし、そのことを頭から否定しようとするつもりもない。
 外国での話ではあるが、本人や家族の信仰や祈りなどが病気の進行に影響を与えるかどうかについて真剣に研究が進められているという話すら聞いたことがある。

 でもそう思いながら、やっぱりこうした信念の物語にはどこか嘘っぽさというか勝者の論理みたいな結果としての正義のような身勝手さを感じてしまう。どうしてか。それは生き続けたいと心底願いながらも、余命宣告があたかも神のお告げでもあるかのように無念の想いを抱いて死んでいった話をいくつも知っているからである。

 新聞や雑誌などに掲載された本人や家族の投稿は、人は信念だけで生き残れるものではないことを日常のように教えてくれている。闘病途中の者、努力の甲斐なく力尽きようとしている者、親しい家族を失い残された者、そうした人たちの嘆きや希望や感謝、そして諦めなどの手記はインターネット上にも溢れている。また、そうした患者、家族の必死の思いに力を貸せなかった無力を嘆く医師や看護師の手記も多い。もちろん、もちろん、己の行き先を探して迷っている心もである・・・。

 恐らくは病に倒れた多くの人が生き続けたいと願ったはずである。なかには生きるための努力を放棄した者もいないとはいえないだろうが、場合によっては死を覚悟しなければならないかも知れない病を告知された多くの人は、その病を克服し生き続けたいと願ったはずである。死にたくないと思ったはずである。その思いは家族もまた同じであったろう。

 もちろん生き残りの信念を持ち続け、そうして生き続けることのできた人も確かにいるだろう。生き残って世界を回った人も、富士山に自力で登ることのできた人もいるだろう。だがそうした者のそうした記録は、「生き残った者」で、かつ、「その事実を発表するに足る実力を持った者」もしくは「発表するチャンスに恵まれた者」に限られているのではないのだろうか。

 だが生き残れなかった者にはどうしたってこうした機会の巡って来るはずがない。どんなに生き残るための力強い信念を持ち、どんなにすざまじい努力をしたところで、宣言通りの余命しか与えられなかった者にとって信念は信念のままの空回りでしかない。信念の声は届かなかったのだから。

 大和魂さえしっかり持っていれば竹槍で戦争に勝てると心底思っていた時代がほんの数十年前までこの国には存在していた。そしてそうした心意気は戦後も長く日本人の心を支配し続けてきた。

 病は気の緩みからだし、野球で勝てなかったのは根性が足りなかったせいである。気持ちさえしっかり持っていれば世の中不可能なことなどひとつもないと、どれだけ人は長い間思い込んできたことだろうか。

 悪しきことのすべてを自分の心のせい、自分だけの努力不足のせいにすることで、耐え忍ぶことと奇跡を祈ることにしか逃避することのできなかった人生を、私たちはどれほど長い間続けてきたことだろうか。
 努力や根性を賞賛する風潮はやがて忍耐への賞賛を取り込むことで、たるむ、根性ナシ、怠け者などの対語を生んだ。

 こうした信念をテーマとするテレビ番組は、ガンに向き合って闘うという患者の信念をあまりにも美化し過ぎているのではないかと、私にはどうしても違和感が残ってしまうのである。「がんばれ、がんばれ」を執拗に求め続け、がんばれば必ず勝つという幻想をすがりつくように生きている者に安易に与え過ぎてしまっているのではないのか、そんな思いがしてならないのである。

 なぜなら、そうした勝ち残った者、生き残った者たちの信念を正義であるとか勝利などと位置づけてしまったら、達成できなかった多くの者たちの想いは敗者の努力不足、薄弱な意思の表れとして片づけられてしまうような気がしてしまうからである。
 生き残りたいと願い、その努力をしたにもかかわらず果たされなかった者たち、彼らはその事実だけで敗者と呼ばれてしまうのだろうか。努力の足りなかった敗残者としての刻印を押されてしまうのだろうか。

 人の心はさまざまな出来事を許容できる容量を持っているはずである。人生は常に新しい出来事との遭遇の積み重ねであった。生まれて自発的に呼吸することから人が始まるのかどうか必ずしもきちんと理解しているわけではないが、生きるということは未知との折り合いでありその積み重ねであったはずである。
 人はそうしたことの繰り返しの中で生き延びてきたのである。そして死もまた未知ではあるが生まれた時から約束されている避けがたい遭遇である。

 生き残ることは勝負ではない。そうした「受け入れることのできるこころ」の存在に気づくことが、いま多くの人たちに求められているのではないのだろうか。人がどこまで新しい事象を受け入れられる容量を持っているのか、その答えはそんなにあっさりとは見つからないかも知れない。

 だが、勝ち残ろうとする信念にすがり続けるだけよりは受け入れる心に気づくことのほうが、もっともっと大切なのではないのだろうか。生き残った事実、そして生き残る信念を賞賛するいくつかの番組を見ていて、その陰にたくさんの穏やかな死、満足した死を迎えた人のいたことを思う。

 そして、リビングウイルであるとか尊厳死などが必要とされる時代とは、そうした「受け入れるこころ」が求められる時代を示唆しているのではないかと、ふと思ってしまうのである。


                          2006.07.21    佐々木利夫


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「ガン再発」への決断と精神論