公園の近くを歩いていると、どこからともなく静かな香りが漂ってくる。見回す目にアカシヤの乳白色の花房が飛び込んできて、あぁもうそんな季節になったんだなと気づかずにいた初夏の訪れをふと知らせてくれる。

 6月21日水曜日、今年の今日は夏至である。地球が太陽に対して傾いて公転しているのだから、北半球では今日の太陽の高度が一年の内で一番高く、それに伴って日の出が一番早いこと、日の入りは一番遅いことは地球物理の基本である。

 ただ人はそうした公転の周期に伴う時々の節目に様々な思いを託してきた。クリスマスも、お正月も本来は冬至の祝いなのだと聞いたことがあるし、小豆粥や冬至かぼちゃなどで祝うのも死にかけた太陽の甦りを奇跡の復活と信じたからでもあろうか。また、昼の時間と夜の時間が拮抗する年に二回の春分の日、秋分の日も日本人は「彼岸」と呼んで先祖を祭るよすがとした。

 ところが夏至にはなぜか国民的な祝いが見あたらないような気がしている。「半夏生」(はんげしょう)という語がある。この日は夏至から11日目を指すと言われているから、梅雨も明けて田植えも終わるなど農家にとっての大切な目安の日であることを夏至の到来に託したのかも知れない。そうした使い方があることからすれば、きちんと調べるならば各地にはそれなり夏至にまつわる行事があるのだろうとは思うけれど、誰にでも分かるような「みんなの祭り」にまでは発展していないのではないだろうか。

 夏至は昼のピークであり、日差しのピークであり絶頂である。エベレストの頂上に初登頂の国旗を立てた瞬間であり、オリンピックで優勝し一段と高い表彰台で今まさに君が代を聞こうとしている時である。
 だがそのことは逆にそれより高い位置のないことを示しているのであり、後はその位置を下るしかないことを示しているのだとも言える。放物線のグラフは頂点を極め、微分で表される接線の勾配は今まさにプラスからフラットになったことを示している。

 いやいや、フラットとは言ってもそれは一瞬のことである。瞬く間にその勾配はマイナスへと変化しようとしている。明日からは少しずつとは言いながら昼の時間が短くなっていくのである。絶頂期の輝きからの陰りがいま始まるのである。

 だから夏至には暗闇から光へと向かい始める冬至のように、期待の込められた未来を感じることはできない。もちろん昼の長さの勝利はまだまだ続く。日差しの長さとは裏腹に気温の上昇はこれからであり、夏本番もこれからである。やがて来る秋分の日まで昼の時間が夜のそれをしのぐことに違いはない。

 でも夏至にはどうしても「今日で終わり」というピークからの落魄が内包されているとのイメージから抜けることはできない。それは単なる予感にしか過ぎないものであり、単なる観念的・空想的なお遊びなのだと理解していながらもである。

 実は今年の今日は肌寒い一日だった。札幌の昼の気温も20度を超えることはなかった。夏至に合わせて今日から道庁や札幌市役所などが中心となって、時計を一時間進めるサマータイムが希望者を募って試行されることになったとテレビが報じていた。

 その話を聞いて、戦後間もない子供の頃にアメリカ占領軍の提唱で同様のサマータイムが全国的に実施されたことがあったことを思い出した。あんまり評判が芳しくなかったらしく、そんなに長くは続かなかったと思うのだが、当時はこの制度をなぜかサンマータイムと、「ン」を加えて呼んでいたことを記憶している。

 あまり勉強することもなく、ひがな一日外で遊ぶことが仕事の毎日だったから、一般時間もサンマータイムも子供にしてみればどうでも良かったのだろうし、その証拠にサンマータイムという語以外に中味についての記憶はまるでない。

 ただ今回のサマータイムを提唱した「北海道庁」の宣伝文句によれば、道民全部がこの企画に参加した場合の経済効果は300億円に及ぶとのことである。
 その金額を検証するだけの実力はないので真偽のほどは分からないが、効果を金銭で計るというのは分かるようでどこか分からない。ただ300億円分だけ人は踊るのだと信じている人がいることは事実なのだろう。

 そうだとするなら、そしてそれが現実の効果として期待できるのだとするなら、統計と予測の中で人はどこか効果測定と言う計算に揶揄されていることにならないのだろうか。4時に退社した人は5時退社なら決して買わなかったであろう洋服を買い、必ず浮かれて飲み会に出かけてビールジョッキを傾けるのだと宣告されているのである。

 ゆとりであるとか家族の団欒などと言った精神論みたいなものばかりを強調することにもどこか嘘臭いものが感じられるけれど、効果測定を金で換算しそのために北海道民全員で踊ろうと呼びかけるのもどこかしっくりこないものがある。

 サマータイムの報道なのだからそうするしかないのかも知れないけれど、テレビにはこの制度に賛成する人物しか登場してこないし、ましてや「退社時間が早まったことで買い物をしたり映画を見たりできるから嬉しい」などと女の子に言わせたりするのは、今の勤務時間帯では映画も買い物もできないという意味なのだから、どちらかというと「やらせ」の気配が感じられてならない。

 まあ、退職して自由人となり税理士事務所なんぞと称するひとりの書斎で気ままに過ごしているこの身にとって、一日の時間をどう区切って呼ぶかはそれほど大事なことではない。
 そんなことよりは、事務所と自宅だけでも数十個にわたる時計の調整のほうが実は大変である。サンマータイムと呼ばれていた頃、時計は一家にぜんまいで動く掛時計が一つという状況だったし、せいぜいが子供にとって宝物のように見えた父の懐中時計があるくらいだったから、時刻の調整もそんなに難しいことではなかっただろう。

 だが今や時計は身の回りに無尽蔵と言ってもいいほどに存在している。単に掛時計や置時計などの数が増えただけではない。電卓にも電話にもボールペンにも、いたるところにこれでもかこれでもかと時計機能は仕込まれている。タイマー予約が必要なビデオデッキなどならその意味の分からないではないけれど、必ずしもその意味を理解していないので的外れになるかも知れないけれど、なんと我が家の洗濯機にもなぜか時計がついているのである。

 それらの時計の全部を、どこかにあるのだろう調節ボタンを、それもその機器特有の操作手順に従って変更していくというのは思うほど簡単なことではない。極端に言ってしまうなら不可能じみてさえいる。
 私自身が横着でへそ曲がりのせいかも知れないけれど、そもそも時をいじくるなんてのはどこか邪道じゃないのかとさえ思ってしまうのである。

 明日から陰りのシーズンに入るんだという勝手な思い込みによるところが一番強いのだけれど、それに加えてサマータイムの導入が全国的に検討されているなどの報道を聞くにつけ、なんだか夏至の日の肌寒さは夏の終わりや冬の始まりがすぐそこまで忍び寄ってきているようなそんな予感をもたらし、そのことがそこはかとない憂鬱さを引き連れてくるのである。




                          2006.06.21    佐々木利夫


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夏至の日の憂鬱