いじめによる小学生や中学生の自殺が続く。文科省が学習要領で必須科目と定めた高校のカリキュラムを多くの学校で勝手に受験用の科目に変更した。環境汚染は止まるところを知らず、イラン・北朝鮮など核兵器をめぐる論議がかまびすしい。世界中でテロや戦争が続き、遺伝子診断、脳死移植、生命倫理などなど、世の中にはおいそれとはどうしたらいいか答えを出せないことが溢れかえってている。

 だからニュース解説者も識者も政治家も学校の先生も、こぞってそうした世の中を総括し解説する時代になった。そして「こんな時代だからこそ、そうした現象が起きている今だからこそ、私たちはそのことについて国民的議論をしていかなければならない」、誰もがそんな風に言う。

 いつの時代でも、新しい考えや技術が生まれ、そのことを知らない多くの人たちを戸惑わせた。そしてリーダーと称する人たちの多くがその答えを国民の議論と称する得体の知れないものの決定に委ねるべきだと訴えてきた。
 だが、本当にそのたびに私たちは、そして国民はそのことに議論してきたのだろうか。議論して決断してきたのだろうか。

 この人たちの言う「国民的議論の必要がある」と言う言葉は、語り手のいい加減な無責任さ、しかももっともらしい言い訳になっているだけではないのだろうかと時々疑問に思うときがある。
 そうした疑問が起きるのは、そう言っている人たちの話しがいつも、何かを提案してこれが正しいと結論だと主張しているのではなく、単に「今こそ真剣に議論していかなければならない」と言う、口当たりの良いそうした言葉だけで突然に終わってしまっているからである。

 その人たちの発言は問題提起だけがやたら長く、その問題が引き起こすであろう様々な障害についての想定される論理だけが長々と続くのに、話はそこで終わってしまうのである。結論を示さないまま、あたかもそれが結論でもあるかのように突然プツンと途切れてしまうのである。そして「国民的議論が必要である」と続くのである。

 そうした言い方に私はどうにも納得がいかなくなってしまうのである。彼らの言う市民とか国民とか人々とは一体誰のことなのだろうか。少なくとも私も友人も知人も国民だろうし、その他私の知らない人、そして無名の1億数千万人の日本人の全部が国民なんだろうし、市民なんだろうし、議論しなければならない「人たち」なのだろう。

 そうした時、何をもって国民的議論と呼ぶのだろうか。国民的議論が必要だと主張するそのすべての案件について、まさに全国民が参加する全国集会とも言うべきものを開き、そこで参加者に己の意見を述べさせ、右するか左すべきかを決定させることを言っているのだろうか。

 そうした結果を国民的合意と呼ぶのなら、それはそれで発言者の意図の分からないではない。まさに言葉通りの国民的合意であることに異論はない。
 だが、そんなシステムが現実に不可能なことは余りにもはっきりしている。いやいや、不可能だなんて言ってしまって始めから諦めてしまうなら「国民的議論」などという言葉を使う必要はない。

 ならばどうして彼らは「国民的議論が必要だ」などと、そこで己の意見を閉ざしてしまうのだろうか。具体的に、「国民投票法を作ってそこで決すべきだ」とか、あるいは「全国集会を開いて全国民の意思決定を確認するシステムを構築すべきだ」と、そこまで主張しないのだろうか。

 それとも彼らの言う「国民的議論」とは、新聞の投書である「読者の声」の集約を言っているのだろうか。それともテレビや新聞や企業が行っている世論調査であるとか様々なアンケートの結果を指しているのだろか。まさかに自分の言っている意見こそが国民的合意に基づくものだなどと奢っているわけではあるまい。

 「国民的議論」という語は、いかにももっともらしい風体を持っている。あらゆる正義、反論の余地なき正義がそこに凝縮されているかのようなイメージさえ持っている。
 だが、実態としては何も意味してはいないのではないのか。正論みたいな見せかけの空っぽの神様をただ奉っているだけなのではないのか。

 ならば「国民的合意」とは選挙か。それなら分かる。国民の意思は結局選挙でしか表すことはできない。政治や政治家に色々批判はあるだろうし、まるで信用できないことの同義語として「政治」という語を使う人すらいる。
 だがどんなに批判したところで国民は選挙でしか己の意思を表す余地はない。大昔のギリシャは、全員参加による直接政治だったと伝えられている。とは言っても、そんな手法は現代のような時代になったら不可能である。間接選挙でしか政治の成立しないことは、世界中が現実のものとして承認している。

 私は国民の声を信用しないといっているのではない。だが多くの評論家が国民的議論の必要性を唱えている一方で、その中に意図的とも言っていいほどにも「政治による決断、つまりは国会による判断」を除外してることに、たまらなく違和感を感じてしまうのである。
 政治以外に国民的合意の手段があり、かつそれによることこそが正しい判断なのだと匂わしているいるその臭いがたまらなく厭になってしまうのである。

 しかも「国民的議論が必要」と説く彼らは決してそのことで責を負うことはない。「必要」と言っただけで、「こうすべきだ」と主張したわけでも、「これによるべきだ」と示唆したわけでもないからである。
 自らを無辜の高みに置き、具体的な国民的合意の手段さえ示さずに(示せないのが本音なのかも知れない)ひたすら「問題だ、問題だ、国民的合意が得られていない」と騒ぐだけでいいのである。

 私も政治を必ずしも信頼しているわけではない。だが、国民が自らの意思を示すのは選挙しかなく、そうして選ばれた者の集団である国会が法律と言う形で一つの決着を示すしか方法がないと思っているのである。それが少なくとも日本人が認める国民的合意の意味だと思っているのである。

 もちろん、時にその決着が愚かな結果を生むことがあるかも知れない。私はそれはそれでいいではないかと思うのである。国民を幸せにするのが政治だと、大上段に振りかぶり恩恵を受けるだけが国民なのだとおためごかしを言うよりは、その愚の責をそうした政治家を選んだ国民として負うことも、それもひとつの「国民的議論の結果、国民的合意」だと思うからである。

 現実にそれしか方法がないのなら政治を不信の対象にするのではなく、信頼できる政治の構築へと向かって行くことこそが、迂遠かも知れないけれど意味不明の国民的議論などと言う語に判断を委ねるよりはずっとずっと望ましいのではないかと感じるのである。

 もしかしたら、我々が選挙権であるとか被選挙権と言ったものを平等に国民に付与したかのように見える政治システムを採用した(憲法15条、44条)のは間違った選択だったかも知れない。与党・野党が審議拒否などと称して法律の制定や国会の運営を議論ではなく駆け引きに利用し、政党として生き残ることのために狂奔している姿はどう見ても民主主義の有り得べきスタイルからは遠くかけ離れているかのように見える。

 権力を否定したり拒否したり不信を煽るなどの姿勢は、どこか強者に立ち向かう弱者の雄雄しさをイメージさせ、そのことだけでいかにも正論を吐いているように見える。だが、権力を権力の座に残したまま、そのことに何の努力もしないで批判だけをするのはどこか変である。

 国民的議論が必要だと考えるのなら、そうした意見の発言者はその具体的な方法を主張しなければならないと思うのである。それが果たせないのであれば、それがどんなに不信にまみれていようとも、今あるシステム、つまり政治(国会)を前提に議論していかなければならないのではないかと思うのである。

 そして更にそのためにこそ、選挙や選挙のあり方に国民(つまり己自身)の責任を被せていかなければならないのではないかと思うのである。
 そうでないと「国民的議論が必要だ」は、結局ないものネダリの「神様に任せましょう」と同じ意味になってしまうような気がしてならないからである。

 「私が正しいんだから私の言うことを聞け」と言うのなら、ことの是非はともかくその主張自体は認めることができる。
 しかしそれを「国民の意思」などと言う得体の知れないものに転嫁し、そこで己の主張を止めてしまうのは、少なくともマスコミを通じた者の発言としては決して許されないと、こんなことにもへそ曲がりはでっかいへそを曲げているのです。



                          2006.11.09    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



国民的議論