「ハチドリのひとしずく」という僅か17行の絵本に人気が集まっているらしい。
 近くの書店三件を回ったが在庫なく、発行所も在庫切れで当分入手困難との返事だったから、けっこうな人気らしい。だからまだ読んでいないので伝聞にならざるを得ないのだが、ネットなどで調べる限りストーリーの概要はこんなものだと言っていいだろうか。

 「森に大火事が起こりほとんどの動物が逃げ出した。しかし一羽のハチドリだけは池に行って小さな口一杯に水を含んでは火にかけ続けた。その行為を無駄だと嘲笑うほかの動物にハチドリはこう答える。『私は私にできることをやっているんだ』」。

 この物語は南米アンデスに伝わる昔話らしいが、昨年ノーベル平和賞を受けたマータイ女史がこの作品を紹介してから若者を中心に急に人気が高まってきていると聞いた。

 まずはやる気が大事、たとえ小さな力でも集まれば大きな力になることを伝えたいとする気持ちはよく分かる。みんながハチドリになればどんな大きな山火事だって消すことができる、だからハチドリになろうとこの絵本は伝えたいのだろう。
 「ハチドリのように考え、ハチドリのように行動してほしい」、そのことをこの本は伝えたいのかも知れない。そしてこの物語や絵本に触れた人たちがそんなふうに思って欲しいと、この物語に同感する人たちの多くは願っているのかも知れない。

 だがこの物語には致命的な欠陥がある。それは、「山火事を消す」というその行為を、批判どころか検討することすら許さない絶対的正義の高みに置き、あたかも神格化されたかのような前提として確立させてしまっていることである。

 この物語はなんのことはない、力を合わせれば何事も解決するということを言いたいだけではないかと思うのである。小さな力など所詮無駄だという多数意見があっても、皆で努力すれば目的は叶うのだと言うことを伝えたいだけにしか過ぎないと思うのである。

 しかも「山火事を消すこと」の正当性、多数の努力による実現性についてなんら実証することなく、読者のフリーな意識に委ねているだけなのである。

 日本の戦国時代の言葉に「一人一殺」というのがある。どちらかと言えば破れかぶれの開き直りの論法だとは思うけれど、「味方一人が敵一人を倒すならば勝利は我が方にある」とする指揮する側の身勝手な空論である。つまりは一人一殺で敵全員を壊滅させることができ、味方は確実に勝利すると言いたいのである。

 私はこのハチドリを信じない。千羽のハチドリが集まっても一万羽のハチドリが集まったところで、山火事を消すことなど不可能である。ましてや一羽のハチドリ以外の全部の動物が協力しようとしない状態では、山火事を消すことなどできるはずがない。水を運ぶハチドリはやがて山火事に巻き込まれて無駄に命を落とすことになるだろう。

 だからこそ「全員が一致団結して山火事を消すという行為に突き進もうではないか、そうすれば必ず火を消すことができるのだから」、物語はそう言いたいのかも知れない。

 ならば敢えてそうした数の力を認めてもいい。なんにもしないでいるよりはなにかをしようとする意思、実行する意思を承認してもいい。だが本当にそれでいいのだろうか。

 たとえば、「幾千年も虐げられ続けてきた民族の誇りと自立を守り、そうした世界を実現するために国民が命を賭けてその妨害に立ち向かうこと」の意思を民族のすべてが確かめることで、その望みは実現するのだろうか。そしてその望みを実現しようとする行為ならばどんな行為であっても、山火事を消すのだから許されると言っていいのだろうか。

 「核の平和利用はすべての国に神が与えた権利である」。イラン大統領の声明である。「コーランに還ることこそが神の教えである」。イスラム原理主義者はそう信じている。核を持つなの声であるとかコーランを信じない人の存在こそが「山火事」であると信じる人々は、休むことなく「私にできること」をひたすらに実行し続けているのである。

 このハチドリの物語は「山火事」の意味を、議論することさえ許さない悪の象徴として位置づけている。「消すこと」を無辜の極みにある絶対正義として持ち上げ、批判を許さない至高の行為として位置づけている。
 しかもそれだけではない。この本に感動する多くの人たちは、その「山火事」を「戦争」であるとか「環境破壊」などという都合のいい対象に勝手に置き換えようとさえしている。

 山火事をそんな絶対悪として位置づけもいいのだろうか。もし、この火事が飢えに泣く子のために必死になって焼き畑の方法で開墾しようとしている森林伐採の手段だったとしたらどうだろう。この火事が消されてしまうことでその子は飢え死にすることになるのである。ハチドリが正義と信じる火を消す行為は、そのまま他者の餓死への自由として機能することにだってなるのである。

 もちろん焼き畑は私の作り上げた無責任なこじつけである。だが、『私は私のできることをやっているんだ』の言葉に感動して山火事の意味を無批判に承認し、ましてやそれを戦争や環境破壊にまで広げてしまうのも同様にこじつけではないだろうか。

 どんな戦争も正義の顔を持っている。領土、祖国、宗教、信条、伝統、文化、命、肉親、家族、繁栄・・・・。なんでもいい、人は己の信ずるものを守ろうとして戦ってきた。だがそのために、ハチドリがやったようなひたむきに口に水を含んで運ぶ行為を正しい選択なのだと言い切れるのだろうか。口で水を運ぶことと手に武器を握ることとの違いはどこにあるのだろうか。

 世界に例のないほどにも空前の平和と安穏の中にいる日本にしたところで、犯罪に対処するのは警察と言う名の武力である。武力なくして安全など望むべくもないと言ったら言い過ぎだろうか。

 『私は私にできることをやっているんだ』。そのハチドリの言葉に読者は感動しているのだろう。だがそれでも人は動こうとはしない。
 「平和を望む」とは「平和」・「戦争」いずれかの投票箱に己の一票を投じ、その足でスーパーへ寄り夕食のための買い物をすることではない。

 ではどうするのか。私の考えはいつもここで頓挫する。日本だってこの61年前の戦争で、鬼畜米英に対抗するために国民全部が一丸となって戦ってきたのではなかったのか。一人ひとりがハチドリになって全部の日本人が同じ水を口に含んだのではなかったのか。

 「真珠湾攻撃の大本営発表は・・・、知る限り興奮と感激で国民の一体感が生まれ、新聞にも批判的な意見などはまったくなかった」(村上孚・マコト、老人独立宣言!、草思社P180)。

 なんにもしないでいることが正しいことだとは思わない。だからと言って、「右向け右」みたいに、全部がハチドリになって山火事を消すために同じ行動をとるという考え方もまた、正しいとは到底思えないのである。

 考えてもみるがいい。ハチドリの世界は100パーセント自己満足の世界である。歯に衣着せずに言わせてもらうなら、無駄な努力でも厭わないと思い込んでいる100パーセント狂信の世界である。

 本人がそう思っているんだから、それはそれでいいじゃないかと人は言うかも知れない。

 だがそうした自分の思いの中に閉じこもって誰の意見にも耳を傾けようとせず、ひたすら己の信じるままに口に含んだ水を森へ運ぶ行為の中に、私はどうしても一人の女にひたむきにつきまとうことが愛だと確信しているストーカーの姿、世界に冠たる優れた民族の実現を夢見て水を運び続けようとしたヒトラーの盲信を見てしまうのである。



                           2006.08.27    佐々木利夫


 現物を読まないでこんな批判じみたことを書くのはどことなく気が引けていた。図書館の転送システムを利用して札幌市内の図書館に一冊しかないこの本をやっと借りることができた。今手元にある。こんな17行の詩である。

 森が燃えていました
 森の生きものたちは
 われ先にと
 逃げて
 いきました
 でもクリキンディという名の
 ハチドリだけは
 いったりきたり
 くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
 火の上に落としていきます
 動物たちがそれを見て
 「そんなことをして
 いったい何になるんだ」
 といって笑います
 クリキンディは
 こう答えました
 「私は、私にできることをしているだけ」


 昨年11月に発行された全83ページのこの本(辻信一監修、光文社刊)は、子供向けの絵本と言うよりは大人へのメッセージとでも言うべきものだろう。そのほとんどが著名人の「水や環境を大切に」、「ひとりがちょっと変れば世界も変る」、「金持ちになるよりエコロジー」、「地球温暖化」などの言葉で埋め尽くされている。
 それはそれで分かるし、ハチドリを笑った動物に悪意はないかも知れないとの意見には少しホッとしたけれど、「森の火を消すこと」そのものの意味について触れている人がひとりもいないのは、やっぱり少し淋しい気がする。
                       附 06.08.30 佐々木利夫



                  
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ハチドリのひとしずく