平18.6.5、村上ファンド率いる村上世彰(よしあき)氏が証券取引法違反の疑いで逮捕された。ニッポン放送株の取得と莫大な利益を得ての売り抜けにライブドアの堀江元社長などと画策したインサイダー取引の疑いである。
 これから書こうとしている話はこれと関連したライブドア事件に関してである。

 似たり寄ったりの容疑でライブドアの元社長堀江氏(通称ホリエモン)が今年1月23日に逮捕された。その逮捕容疑となったライブドアの証券取引法に基づく報告の不正及びホリエモン逮捕などによって株価低下や上場廃止と言った被害をうけた株主が損失の補償を求めて訴訟を提起したという報道が村上逮捕と同じ日にニュースで流れた。

 そうした原告の中に、一人で6億円を失った者もいるとの報道がなされた。そのニュースを聞いて私はこの6億円を損害と呼んでもいいのだろうかと、ふと疑問に思ったのである。6億円の損失を受けたのは事実なのだろうから、その額を被害額と呼び、彼を被害者と呼ぶことに法律上は問題がないだろう。

 人はそれぞれだし、それぞれであることそのものが人を人たらしめていると言ってもいいのだとも思っている。だからニュースがその人を被害者と呼び、彼自身が「わたしは被害者である」と宣言したところでそれを間違いだと決め付けることはない。

 6億円を失ったことで彼の現在の生活がどうなっているのか、そこまでの報道はなかったからそのことについて私は知らない。それでもわたしは思うのである。

 仮に彼がその損失で全財産を失い、路頭に迷うような状況に陥っているとしようか。それでも、その状態をもってわたしは彼を被害者などとは呼べないし、呼んでもいけないのではないかと思ってしまうのである。
 いかに自分の勝手にできる財産だと言っても、そうした生活困窮者になるほどまでに6億円もの全財産をライブドアにつぎ込んだのだとしたら、彼は家庭も家族も自分の生活すらも考えていない単なる金の亡者であり、たわけ者である。

 また仮に、6億円の損を出してもなお、彼にはゆったりとした生活を維持することができるだけの資産が残っているのだとしようか。それもやっぱり彼は被害者ではなく、単なる儲け損なった欲張り者だということになるのではないかと思うのである。

 どちらの状態にいるにしろ、ライブドア株の上場廃止に伴う損失の発生は事実なのだろう。だから、同情する余地が一片もないなどとは思わないけれど、私は被害者という言葉の中には、どこか「救われない弱者の嘆き」みたいなものが根源的なものとして含まれているのではないかと思うのである。

 もちろんこうした思いは私の独断である。そもそも被害という認識そのものだって相対的にならざるを得ないだろう。私が6億円の損失を被害額とは言わないと思ったところにしろ、ではいくらなら被害と呼べるのかと問われるならば、遺族年金頼りの老女が1万円入りの財布をひったくられたこととの間には様々なグレーゾーンがあり、とたんに私の思いそのものが萎縮してしまうのは明らかである。

 ただ私は被害者という言葉が口から外、例えばマスコミなどのような媒体にいったん出てしまうと、それは勝手に一人歩きでもしてしまうかのように、自らを正当化しようとする姿勢を自動的に生成してしまう場合が多いのではないかと思うのである。

 被害者であると名乗るだけでその者の主張はとたんに正義となり、保護されて然るべきものへと変節させてしまう驕りみたいな風潮が、世の中に少しずつはびこってきているような気がしてならないのである。
 たとえそれが持たざるものの単なるひがみ、やっかみに過ぎないのだとしてもである・・・・・。

 かくて持たざる男はそれがから元気であることを承知の上で、力なく笑うのである。あはは・・・・。




                          2006.06.06    佐々木利夫


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わたしは被害者