これは私だけの勝手な思い込みではあるのだが、男の子にとってもしかすると秘密基地というのは大人になっていく過程での必須アイテムと言うか通過儀礼みたいなものなのではないかと思うときがある。

 私にとっての最初の秘密の基地は、小学生の頃のアカシヤの木の梢であった。自宅近くの坂道の上にあった、子供の視点から見るならけっこうな高さの一本だけの大木であった。せいぜいが地面から2メートルほど登った太い枝の二股に、友達2〜3人が腰掛けられる程度の巾と長さの木の板を数枚釘で打ちつけただけの、たったそれだけのものである。

 それでもその場所は、茂った葉に守られて外からは決して見られることのない仲間だけの空間なのである。そこで本を読んだような記憶もないし友達と何かのゲームに興じたような記憶もないから、きっと何をするでもなく単に木に登ることそしてそこに腰掛けていること、そのこと自体に意味があったのではないかと思う。

 いやいやもしかしたら、そうした秘密の場所を自らの力で作ったこと、そして持っていると言うこと、そうした秘密を仲間と共有していること、そうしたことだけに意味があったのかも知れない。なにしろそうした場所を持っていたことだけが強烈に記憶に残っているだけなのだから・・・。

 続く第二弾は中学生になってからである。私の生まれは夕張である。最近こそ財政再建団体、つまり地方自治体の倒産状態で有名になった土地であるが、少し前までは夕張メロンとしても名を馳せていた北海道中央部の小さな炭鉱町である。

 父が炭鉱夫だったので炭鉱住宅(いわゆる炭住)が住いだった。その当時の炭住はハモニカ長屋と呼ばれていて、細長い平屋の建物を五軒に仕切っただけの立派とはお世辞にも言えない代物だった。トイレなんぞと言うハイカラなものなどお屋敷内にすえつけられていることなどなく、外便所と称される建物が五戸分まとめて戸外に作られていた。

 そんな状態だから戸内はもとより外にも物置などなかったが、燃料の石炭だけはふんだんに配給されていたのでそれを保管しておく石炭庫は室内の玄関の横にあった。
 因みに水道も各戸に蛇口がついたのは中学生になってからで、それまでは共同水道から天秤棒を使ってバケツで運ぶのが男の子の仕事であった。
 私たち家族の住いはその長屋の片方の端にあり、僅かの隙間を置いて小便用一個に五戸分の便所用建物が直角に隣接していた。

 ところで長屋は平屋であるが北海道は積雪地帯でもあり、いわゆるトタン張りの三角屋根になっている。当然に天井裏がある。普通、屋根裏は柱と梁だけの真っ暗な空間であるが、折りよく長屋の両サイドの三角屋根に対応する壁に50センチ四方くらいの明り取りの小窓がついていた。

 その屋根裏のむき出しの梁に数枚の板を敷いて、そこを父が物置代わりに使っていた。荷物の出し入れは石炭庫の天井板を外して利用していたようである。

 これこそ格好の隠れ家である。懐中電灯は高価だし、二股ソケットから屋根裏へコードを引いて電球を灯すような才覚などなかったから、明かりは三角屋根の壁の窓だけが頼りである。物置代用として荷物の出し入れに石炭庫の天井を使っていたと書いたが、石炭が減ってくると子供の背丈では天井へ届かなくなるし、加えてそこからの出入りでは家人に露見する恐れが高い。従って外便所の屋根を利用した小窓こそが唯一安全な出入り口である。
 下界とは僅か一枚の天井板で仕切られているだけだから、まかり間違って踏み外そうものなら久米仙人の二の舞になるのだろうが、荷物を少し動かせばどうやら人一人横になるくらいの隙間を作ることができる。

 ところが問題がないではない。父の職業は炭鉱夫だから燃料は当然に石炭であり、無料に近い価格で配達されていた。当然、冬の暖房はもちろんのこと夏の煮炊きもすべてストーブだった。そのため年がら年中ストーブは燃やされており、その熱気は天井を通して当然に天井裏へ直接こもることになるし、夏などは焼けたトタン屋根とのサンドイッチ状態になるのである。

 しかもストーブに煙突はちゃんとついているとは言いながら、焚き方や石炭の投げ込み方煙突掃除の小まめさなどによってストーブ本体や煙突の隙間から煙が漏れ出すことが多く、それが毎日のように繰り返されるものだから、天井裏はいたるところ煤で真っ黒なのである。明り取りの窓が近くにあるとは言うものの、基地の中はそんなに明るくはない。そんな中で手探りで汗だくになりながら下界の住人に気づかれぬように秘密の基地を維持していくというのはそれなり大変な努力であった。

 そんな本も読めないような薄暗い空間で少年は一体何を考えていたのだろうか。気まぐれに数回使ったと言うのではない。恐らく一年以上も頻繁に利用していた記憶のある秘密基地であった。
 6畳ニ間に台所という狭い家に、両親と兄弟姉妹5人の7人家族であった。最年長の私にとっての「自分の部屋が欲しい」という、そんな思いがそうさせたのかも知れない。

 やがて少年は高校生になり卒業して公務員になった。そして始めての勤務先で独身寮に入った。そこはもちろん個室であった。だがしかし、生活の本拠としての自分の部屋は、たとえ一人の気ままな空間ではあっても秘密基地と言うのとはどこか違っていた。

 転勤を繰り返し、しばらくして結婚して子供が生まれた。秘密基地を知った少年は、なんとか官舎の部屋の片隅を確保して自分の空間を作ろうとした。書棚を置きステレオからクラシックを流し小さな机を前にする。それでもその空間はやっぱり秘密の基地とは異質のものであった。

 自宅を購入した。4LDKのマンションの一室を自分専用の部屋に充てた。どかんと部屋の真ん中に机を置き、片側の壁全面にスライド式の書棚を据えつけ、その場所は本に囲まれた自分だけの部屋になった。
 だがその場所はお気に入りの書斎ではあっても秘密の基地ではなかった。少年はまだアカシヤの木陰の秘密の基地にどこかでこだわっていた。

 時は過ぎ、少年はいつか定年を迎える歳になった。税理士としてしばらく仕事をすることは決めていた。娘二人は既に結婚していて4LDKにも空きができていた。自宅を事務所として開業するのもよし、自宅以外に事務所を構えることだってできる。

 男に迷いはなかった。開業の挨拶状にこんなことを書いた。

 「ひとりぽっちの売れない探偵事務所?開きました。・・・映画ならさしずめ冷たい雨に打たれ傘も持たない美人が、私にしか解決できない難事件を持ち込んでくるはずなのですが、・・・ここは事務所ではなく幼い時の秘密の基地の夢の続きです。

 そう言えば最初に作った秘密基地のアカシヤの根元に、その頃空き缶に入れた私の宝物を埋めたことを思い出した。その宝物がなんだったのかすっかり忘れてしまってはいるけれど、今でもその場所に埋まっているのだろうか。その木は今でもあるのだろうか。

 そうしてこの事務所で8年が経ち、こうして原稿を書いている。妻にも友人にも公認の事務所だから秘密とは言えないのかも知れないし、ましてや雨に打たれた美人の訪問など一回もなかったけれど、それでもここは誰に邪魔されるでもないたったひとりの気まま空間である。

 秘密の基地を持つことは、少年にひとりで考えることを教えてくれた。おそらくその多くが愚にもつかぬ白昼夢の類だったかも知れない。そうしたことの全部がいいことだったのかどうか必ずしも自信はない。小人の常として閑居と不善とは同義みたいなものかも知れないけれど、たとえそうだとしてもそうした時間の存在は、貴重な宝物のようにいつまでも私の中で輝き続けているのである。恐らくはこれからも・・・。

 それって、私は今でも少年からさっぱり進歩していないってこと?・・・・・・?????。



                          2006.10.15    佐々木利夫


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少年と秘密の基地