大阪でホームレスが殺され、高校生一人、中学生三人が逮捕された。橋の下に住んでいるホームレスに向かって自作した火炎瓶を投げつけて焼死させたと言う。

 どうしてこんなことが起きるのだろうかと嘆くことしきりの声が多いし、そのことに共感もしているのだが、命とは何かについて改めて考え込まされる事件だった。

 命が大切だという論理は恐らく当たり前のこととして数限りなく繰り返されているし、命について現代人、特に若い奴は一体どう考えているんだと指摘する意見についても十分に分かる。
 ただそうした「命の大切さ」に対する考えの多くは、重さとか大事さとか貴重さといった、命とは始めからダイヤモンドのように輝いているものなんだというそもそも論に終始しているような気がしてならない。

 もちろんそうした思いに反論したいとか、誤りだと指摘したいと言うのではない。それはそれでいいのだけれど、なにか別のもっと根っこの問題として命を考えていく必要があるような気がしてならない。

 それがなんだと聞かれてすんなりとは出てこないのだが、要は命に対する理解なのではないか、「命を分かる」ということなのではないかと言う気がしてならない。
 命が重いと言ったところで、その重さに軽重のあることは誰しも知っている。地球より重いことは世界共通だと言ったところで、様々論議されながらも多くの国に死刑は依然として存在しているし、テロに限らず事件、事故も含めて理不尽な死は世界のいたるところに蔓延している。

 身近な者の死、親しい者の死に対して「私が身代わりになりたい」という思いを持つ人がいないとは断言できないけれど、言葉とは裏腹に事実として己の死と他者の死が交換可能であるとしたとき、どこまでそうした思いが自発的に実行されるかは疑問なしとしない。
 むしろそうした身代わり意識は、身代わりが不可能、つまり代替できないものとして決定されているがゆえに語られる他人の死への嘆きのメッセージでしかないのではないだろうか。

 命の重さを量ろうとは思わないけれど、やっぱり自分の命と遠くイラクでのテロに巻き込まれた人たちの命とは違う重さがある。そうした重さの違いは、そのはざまに存在する多くの命それぞれと自分の命との距離の違いでもある。そうした重さはそれぞれに異なるものとして我が身の死からゾウリムシの死まで連続して認識されているものなのかも知れず、くじらや象や魚や昆虫、果ては微生物から植物の命などなど、異なった重さを持つ命として、逃れることのできない決定された認識として人の心に刷り込まれているのかも知れない。

 恐らく大阪でのホームレス事件も加害者と被害者のそうした距離による命の重さの違いが背景にあり、その違いが彼らと我々とでは大きく異なっているというところにあるのだろう。

 宮沢賢治はこんなふうに語った。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射(う)たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰(たれ)も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」(なめとこ山の熊)

 私はこの童話を読んだとき、ヘレン・ケラーの伝記を映画化した『奇跡の人』を思い出した。見えず、聞こえず、話せない三重苦の彼女が初めて言葉を理解したのは”water”の一言を理解した瞬間である。家庭教師アニー・サリバンとの苦闘の中で頭から水を浴びせられながら指文字で「水」と教えられ、閃くように「物には名前がある」と理解した瞬間である。

 分かること、つまり「物には名前がある」と分かったことがその後のヘレンケラーを生んだ最初の一歩になった。サリバンとのすざまじいまでの闘いは、たった一言の理解のためにあったのである。

 宮沢賢治はこの童話の中で熊の命を奪うことを生業としている猟師の姿を描いた。命を奪うことに猟師は後ろめたさは感じているようだが、それでも彼は命を理解している。命と真正面から向かい合い、命は力で奪うことができること、命とは死であることを理解している。

 だから私は、「命が大切」という呪文を唱える前に、命を分かること、命を分からせることがどうしても必要なのではないかと思うのである。
 人の命が大事ならば、熊の命も同様であろう。命に違いがないと言うならそれも認めよう。でもその前に命そのものを分かるという前提がどうしても必要になるのではないかと思うのである。

 命の発生と喪失なくして我々の生活はない。食べること、暮らすこと、生きることそのものが他者の命の存在の上に成り立っている。ヘレン・ケラーが「water」を理解したように、人々に「命」を分かってもらうためには何が必要なのか。命は何より重いという前に命の意味をどう伝えていけばいいのか。

 人はエゴである。エゴとは自分の命と他人の命を違うと感じることである。そのことを否定したところで答えは見つからないだろう。エゴを超えて命を理解するためには命の多様さを理解することから始まるのではないかと思いつつも、いつも、どんな時も、「じゃあ、どうするんだ」の自問から逃れることはできない。

 命は見えない。だから、命は感じるしかない。己に命のあることを感じ、己以外にも多様な命の存在を感じること、見えなくても命が一つの存在であることを知ることが命を分かることの基本にある。

 この四人の少年にはそうした命が分かっていない。見えないものは命以外にもたくさんある。夢、恋、平和、希望、心、想い・・・・・・・・・。そうした見えないけれど存在するたくさんの大切なものをこの少年たちは理解できなくなっているのではないだろうか。

 その原因を社会だ、家庭だ、教育だと責めたところでせんないこと.かも知れないけれど、そうした中に私やあなたも含めた大人の存在が色濃く影響を与えていることは違いなかろう。そうしたまま少年が大人になっていくのだとしたら、そのつけは少年だけでなく私たちにも回ってくる。



                        2006.3.21    佐々木利夫


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ホームレスが殺された