飲酒運転の乗用車に追突され、そのあおりで川へ落ちてしまった車の中にいた幼い姉妹三人が死亡した福岡での事件を契機に自治体、企業とも飲酒運伝に対する処分を懲戒免職までに引き上げようとする動きがあちこちで追随している。

 飲酒運転が自己管理を自らの意思で放棄した卑劣な行為であることに異論はない。ましてやその結果として死亡事故などを起こすなど、場合によっては殺人罪を適用してもいいのではないかとすら思っている。

 だがこの頃の新聞もテレビも世の中がこぞって「飲酒運転バッシング」に走っていく現象には、どこか割り切れないものを感じてしまう。

 この事件を契機に警察も取り締まりを強化し、それに呼応するかのようにこんなにも飲酒運転が日常化していたのかと、その摘発件数の多さに驚かされるのも事実である。
 だから飲酒運転をなくするために企業も官庁も職員啓発に努め人事上の懲戒を重くすることや飲食店も顧客に注意を喚起していこうとすることなどについて理解できないと言うのではない。

 だだその一方で、「何が何でも飲酒運転は悪」などと、どうして日本人はこんなにも一方的に流されてしまうのだろうかと思い、飲酒運転の卑劣さに対する糾弾の思い以上に号令一過で全員が右を向いてしまうような風潮に何とも言えない割り切れなさを感じてしまうのである。

 ライブドア事件もそうだった。耐震偽装事件もそうだった。秋田県藤里町で母親が娘を川に投げ込みその友達の男の子まで殺害したとされる事件でもそうだった。いやいや事件がらみのものだけとは限らない。オリンピックでもサッカーでも野球でも、どうして日本人は一つの顔しか持たないような状態にすぐになってしまうのだろうか。

 しかも、そうした顔はある日突然全く違う方向へとあっさりと向きを変えるのである。つい昨日のことなどまるでなかったかのように新しい事件や出来事へと向かっていくのである。

 それをマスコミに踊らされている現象だとあっさり割り切ってしまうのは間違いかも知れない。
 だが最近のJR京葉線の電車の不通事故であるとか都内の停電などに対して死活問題みたいに金切り声を上げて批判している人たちの姿を見ていると、日本人はこんなにも一過性の感情に支配され易い人種なのだろうかとなんだか寂しくなってくる。

 かつての職場に「瞬間湯沸かし器」と呼ばれる上司がいた。もちろん言葉通りの意味で、こっちが何が何だか分からないうちに突然怒り出すという、どうにも扱いにくい人種である。だからと言ってその人物の怒りはそれほど長くは続かない。瞬間的に怒りだすかも知れないけれど、そのことは逆に醒めやすい性格でもあることを意味している。
 だからと言ってそうした性格が職場にとって望ましいものではない。日本中が瞬間湯沸かし器人間になってしまったのだろうか。
 人はだんだんとこらえ性がなくなっていっているのだろうか。大人だけではない。子供の世界にも「切れる」が蔓延していっている。

 つい先日、事務所で開いたいつもの飲み会でも仲間からそんな「こらえ性のない人たち」の話がでた。そして、そうした傾向は日本だけではなくヒトラー下のドイツも同じではなかっただろうかとも言われた。
 オウム真理教の教祖だった麻原彰晃の死刑判決が最高裁で確定した。「オーム出て行け」と叫ぶ教団そのものに対する被害者や近隣住民の嫌悪感にしたところで、ヒステリックを超えた感情むき出しの批判そのものが宗教的だとさえ思ってしまった。

 だが考えてみれなら、キリスト教だって戦争や魔女裁判などなど、どれだけ人を殺してきたのかを振り返ってみればそれはオームなどかすんでしまうほどだろう。にもかかわらずキリスト教は健在であり隆盛である。

 どこまでを「世の中」と定義すべきなのか実は分からないまま言っているのだが、世の中が一つの流れにまとまっていこうとしていくのは間違いであり、危険な風潮なのではないのだろうか。
 たとえそのことが飲酒運転撲滅であるとか、はたまた平和の推進だとか殺人や犯罪のない世界を目指すなどと言った、一見批判など許されないかのようなテーマであるとしても、どこかでちょっと一歩引いてみる必要があるのではないだろうか。

 つい数日前に小泉首相から安倍総理大臣へとトップが交替し、新総理の施政方針演説が放映された。内容は多岐に亘るが、タイトルは「美しい日本」だった。
 こうした言葉にはだれも否定できないないイメージが最初から与えられている。だがなにが美しい日本なのかと問われれば、癒しの風景から豊かな国づくり、近隣や親子などのゆったりとした環境などなど、そのイメージはまさに聞く人各人それぞれであろう。
 反論できないような言葉には気をつけろと、こんなところにまでへそ曲がりはつい、へそを曲げてしまうのである。

 古い言葉に「逆櫓」という語がある。櫓は舟を進めるためのものだが、時に舳先にも櫓をつけてその進行をコントロールしようとするものである。逆櫓が常に逆推進の役目だけのために設けられたものではないだろう。むしろ舟を自在に扱おうとするためのものだと理解するほうが正しいのかも知れない。
 だが、社会が民主主義を採用した背景は多数決が絶対無比の正義であることを示したかったのではなく、むしろ少数意見に耳を傾け「少数良く多数を律する」場合のあることに望みを託したことにあるのではないだろうか。

 そのために逆櫓には、「ちょっと待て」とか「少し頭冷やして考えようよ」などと言った重大な役割も与えられているのではないかと思うのである。

 説得力も理論もない私の棹差す逆櫓など、結局は単なるへそ曲がりのたわごとなのかも知れないけれど、新聞もテレビも報道であるとか文化などからどんどん離れていって、ワイドショーの中に埋没していっているような気がしているのも妄想なのだろうか。
 購読部数であるとか視聴率は結局人が決めるものだから、利益追求のために作られたマスコミがそうした方向へと変っていく責任は、つまるところ読者なり視聴者にあると言われればそれまでである。

 でも本当にそれでいいのだろうか。一過性の怒りや笑いの中で、次の目新しい怒りや笑いを麻薬のように求めていくこと、そしてそうしたネタを探し出してきては増幅させるようにして国民に提供し続けることが今の時代に生きるマスコミの役割なのだろうか。

 「変なものは変だ」と理屈抜きで言い続けられるのは、実は老人の特権である。なにしろ、老い先短い身にとってみれば、何を言ったところで報復されることなど恐るるに足らないことだからである。無責任を撒き散らしても一向にこたえることなどないからである。

 孫には「いい爺さん」であるとしても、やっぱり年寄りの特権は「意地悪ばあさん」であったり、「偏屈爺さん」であることにもあるのではないか。そしてそうしたへそ曲がりにもそれなりの効用があるのではないだろうかと、これまたへそ曲がりは自画自賛、白昼夢の世界で気ままに遊びたがるのである。




                          2006.10.1    佐々木利夫


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へそ曲がりの効用