北朝鮮が地下核実験を実施すると宣言し、10月9日に宣言どおり実施されたらしい。地下とはいえど核実験なのだから「らしい」はないと思うのだが、近隣諸国の地震波の測定によるM(マグニチュード)の値もまちまちであり、地下から漏れたと思われる核爆発でしか生成されないと思われる微量の放射能をアメリカが検出したと伝えられたが、それでも確定的な核実験がされたとの報道はまだなされていないようである。

 地下実験を行ったとする北朝鮮の発表及びその後の測定データなどから国連の安全保障理事会は全員一致で制裁規定を含む国連憲章第7章に基づく決議を採択した。

 第7章は「平和に対する脅威、平和の破壊または侵略行為の存在」を認めた国家などに対し、41条に基づいて経済制裁を科したり、42条に基づいて軍事行動を起こすことができると明記されている。
 実際の決議は41条の経済制裁に限定されているらしいが、この決議は法的拘束力を持つため、すべての国連加盟国が従わなければならず、事実上の国際条約に相当する。

 世界中のあちこちで核兵器の開発が始まってそれがその国の武力の背景になってしまい、単なる威嚇の範囲を超えて現実の攻撃に使われたらどうするんだと言う恐れの分からないではない。
 それのみに止まるものではない。その核兵器が死の商人を通じたりはたまたその国の財政的な商品として核を持ちたいと願う他国や狂信的なテロなどに流れていったら、いったいこの世はどうなってしまんだと言う脅威もまた当然の思いである。

 だから核兵器の保有はもとより、その開発につながる実験や研究も中止させようとする考えは十分に理解できる。そしてそれは当然に国際的な約束として実施されなければならない事柄だろう。

 そのことに異論はない。むしろ核兵器禁止の動きは世界にとって必要なことだとも思う。
 だが、そうした核兵器からの離脱のテーマは世界中がそうすることによって始めて目的を達するものなのではないのだろうか。そうだとするならある国に対して、「お前は核兵器を持つな。俺は持っていてもいいけれど・・・」の理屈はどうして出てくるのだろうか。

 安全保障理事会は国連加盟国の中の米・英・中・仏・露の常任理事国5カ国とアルゼンチンや日本などの非常任理事国10カ国で構成されている。しかも常任理事国には拒否権があって一国でも反対する限り国連の決定は成立しない。
 核保有に関しては世界に保有国、保有宣言国、可能性の高い国、疑惑のある国、断念した国、廃棄した国など多様であるが、核保有国とされているのは拒否権という強大な力を有する常任理事国の全部であることは注目に値する。

 つまり、核保有国こそが拒否権を背景とした国連の決定権を持っているのであり、彼らこそが他国の核開発に対する国連としての制裁権を有しているのである。

 核兵器がどれほど悲惨な結果を招くかは、世界で唯一の被爆国である日本が一番知っている。いやいや、その悲惨さは今や世界中が認識していると言っていいかも知れない。
 だからこそ核兵器をなくそうとする運動や宣言や保有に対する制裁を世界は国連と言う組織を通じて考えたのかも知れない。

 だとするなら、どうして常任理事国のすべてが現に核兵器を保有しており、そのことが国連加盟国全部に承認されているのだろうか。
 単なる保有の事実だけではない。例えば「臨界前核実験」などと称して現に核爆発の研究が続けられ、核兵器廃棄のメッセージなど国の姿勢や方針としてでもほとんど聞こえてくることはない。

 私にはそのことがとてつもなく奇妙に思えて仕方ないのである。「先に持った者が勝ち」だなんて理屈は、まさに持てる者の勝手な驕りなのではないのか。
 「俺たちはきちんと管理できるから保有は正当である。後発組に持たせたら何をするか分からないから持たせないようにするのだ」と考えているのだとしたら、その理屈は一見まともなように見えて、実はとてつもない傲慢で構成されているのではないのか。

 核開発の話だけではない。どんなことがらにも勝者の理論というか、力ある者の弱者への支配というような理屈が日本はおろか世界中を跋扈しているような気がしてならない。
 そうした理屈は国連憲章7章の文言からも分かるとおり、どんな場合にも平和や正義の衣をまとっている。そしてその衣は「力」という材料で作られていることに疑う余地はない。

 私は大国の論理が分からないというのではない。切羽詰れば何をするか分からない国に溢れるほどの力を与えることの危険を理解できないというのではない。
 ただ、大国が大国たる力をもって、特定の国に対して「切羽詰れば何をするか分からない国」と名指ししてしまうことに、そうしてそういう風に特定する力と言うのがやっぱり「核兵器の保有」が背景にあることに、どうしても割り切れなさが残るのである。

 相手国に核の放棄を望むのであれば、まず自らが核兵器の永久廃絶を宣言し、期限を設けてでも検証可能な形で他国と共同して核兵器を廃棄する手順を確定させていくことが、必須の要件なのではないかと思うのである。
 それなくして「俺は良い、お前はダメだ」の、なんと無体な説得力のない主張であることか。相手の喉下にピストルをつきつけて、お前自身の意思で持っているピストルを今後永久に放棄すると宣言せよと約束させたところで、その約束のなんと無力なことか。

 中国が航空母艦の保有の検討を始めた。日本でも今月の北朝鮮の地下核実験を契機に核の保有について議論すべき時期に来ているのではないかとの意見が政治家の一部から出始めている。世界中のいたるところで今も戦争は止むことなく続いている。

 力は知らぬ間に増殖する。力が力を抑え、権力が弱者を保護すると称して虐げてきたことを、我々は否応なく歴史から知らされてきたし、事実として経験させられてもきた。

 人も国も、いつもどこかで「自分だけは正しい」と思い込んでいる。そうした思いは私自身の中にも溢れるように存在していることを感じることができる。
 だからこそ、個人のエゴを離れて、国は武力からの離脱を真剣に考えていかなければならないのではないだろうか。力が力を抑えることのできることは事実である。暴力団がすごんで見せそれが通じるのも、結局は力が現実を支配していることの一つの証左である。
 しかし、国もまた世界も、そうした暴力団の抗争や力ない者への圧力とは違った道を選択し歩んでいかなければならないと思うのである。

 それとも、国といえども所詮は個人のエゴから離れることなど永久にできないのだろうか。「世界平和」や「核兵器廃絶」などと言う輝かしい言葉なども、結局は不可能と題された辞書の中に墨痕も鮮やかに最初から書かれている空虚で空疎な消えない文字なのだろうか。

 私は北朝鮮やイランの核兵器開発を認めるべきだと言っているのではない。
 ただ、核兵器保有国が核兵器を以ってしか他国の核兵器開発を阻止できないと考えているのだとしたら、その理屈がいかに保有国共通の意見として一致したところで、そのまま相手国の開発意欲に通じる理屈になってしまうのではないのだろうか。

 なんたって、核兵器には他国を屈服させるだけの力が込められている事実を、核兵器保有国自らがあからさまに認め、世界に向けて宣言しているのだから・・・。



                              2006.10.26    佐々木利夫


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核兵器廃絶の自己矛盾