ワイドショーだからこそそうなるのかも知れないけれど、テレビカメラに向かって事件についての意見を述べる当事者などの関係者と称する人たちの映像がよく見られる。

 ところで、その映像の多くが首から下だけであったり、顔にモザイクがかかったりしている上に、声まで変えていますとのテロップが流されることも多い。暇になってきて、そうした興味中心の番組を見る機会が多くなってきたせいなのか、それともそうした関係者の登場が必要な事件が多発しているからなのか。

 そうは言っても、顔のない人物が事件について「あーだ、こーだ」と解説しているのを見るのはどこか気になって仕方がない。それも事件に直接結びつくような話ならともかく、出会えばあいさつをする程度の人物だったとか3年前に隣近所に住んでいたとか小学校や中学時代のクラスメートで当時の印象を話すだけだったりなんかすると、なおさらである。

 どうしてそんな顔を隠すような放映をするのだろうか。一番基本的に考えられるのは、放映されている本人が自分の顔や声などを放送しないように強く希望している場合などである。

 もちろんそうした処置の必要な場合のあることを否定するのではない。放送にはどうしても必要な発言だけれども、発言者の身元が分かってしまうとまだ公表してはいけない疑われているだけの人物が特定されてしまう恐れがあったり、発言した人の身に危険が迫ったり近隣からの不当な扱いを受ける恐れがある場合などは当然の配慮だと思う。
 また、発言した本人自身がその発言内容のために刑事責任を問われるような恐れのある場合なども、同様に考えていいであろう。

 ただそうした配慮の必要な場合とは、その発言が報道する事件にとって本質的に重要であり、その発言なくしては当該事件の本質に迫ることができないと考えられるケースなどに限られるのではないだろうか。

 ところが現実にはそうした顔のない人たちの発言は、決して事件の本質を語るものでも、その発言によって今後の近隣との人間関係がこじれるような話題でもないのである。
 極端に言ってしまえば、たんなる噂話しの繰り返しであったり、問題とされている人物に対する発言者の好悪の感情や幼少期の性格分析もどきの解説みたいなものばかりがやたら多いのである。

 こうして頻繁に顔のない番組を見ていると、考え過ぎかも知れないけれど、顔なし報道の目的は真実解明であるとか必要な事実の報道のために行っているのではなく、例えばホラー映画などで恐怖心を高揚させるためにクライマックスなどに流れるオドロオドロした音楽のように、一種の視聴率稼ぎのヤラセではないかと思ってしまうのである。
 単に必要以上に事件を興味深く演出することで集客しようとする小道具になっているのではないかとさえ勘ぐってしまうのである。

 それはそうした発言の内容が、得てして事件渦中にある者が被害者もしくは被害者側にあるときは必要以上に美化され、容疑者もしくはその疑いのある者の場合には針小棒大に欠点だけが誇張されるような気配が強いことからもうかがい知ることができる。そしてその誇張された分だけ間違いなく事件の本質を歪め、どこか事実とは異なる方向へと誘導することになってしまっているような気がしてならない。

 発言者の秘匿は本当に必要なのだろうか。そうした者の発言は発言者の映像を秘匿してまで報道しなければならないほどの重要な要素を持っているのだろうか。

 匿名による投書や意見をいつも嫌っていたのはむしろマスコミ自身ではなかっただろうか。それはむしろ当然のことである。匿名の意見はいつの世も検証できない情報だからである。そんなものにマスコミが振り回されてならないことは報道の真実の要請からして当然のことであり、そうならないためにマスコミ自身が自戒を込めて自律したのはマスコミの命だったとも言えよう。
 だからこそ例えば新聞の投書欄についても「匿名だけによる投書は採用しません」と、その掲載の基準を明らかにしたのではなかったのか。

 そのマスコミが、氾濫しているとまで言えるほどにも顔のない映像を四六時中垂れ流している。匿名の情報を無批判にばらまいている。
 犯罪を犯した悪い奴なんだからとか、真っ黒けに疑わしい人物なんだから、何をやられようが何を言われようが言われたほうに文句は言えないはずだなんて思っているのだとしたら、それは既にマスコミの驕りである。

 「言論への暴力を許すな」。この見出しは、靖国神社に特定の戦犯が合祀されたことに関し昭和天皇が生前不快に思っていたと報道した日経新聞社に火炎瓶が投げられたことに対する朝日新聞の社説である(06.7.22朝刊)。その言や良し。それは報道の真実が曲げられようとすることに対するマスコミ自身の決意と闘いの姿勢だからである。

 しかしながらこうした顔のない映像の報道は、報道する側としては顔が見えているから真実だと思っているのかも知れないけれど、受け取る側としては事実かどうか確かめることのできない単なる匿名情報にしか過ぎない上に、マスコミそのものがその報道をヤラセでなく真実のものとして報道したかどうかの意味すら確かめることもできないのである。

 報道は必然的に一方通行にならざるを得ない。だから報道には、誰にでも理解できるほどはっきりした匿名の必要性がある場合以外は顔のない映像であるとかモザイクの映像などは、例え撮影される側からの強い要求があったとしても拒否するだけの意思、必要によっては放映しないとの決断力を持ってほしいのである。

 顔のない映像を止めることによって視聴者がその発言者に事実を確かめることができるということを言いたいのではない。そうした顔のない放映を避けることによって、発言者、マスコミともども、そうしたインタビュー報道に一段と慎重になるだろうし、そのことで報道の正確性が一層高まっていくのではないかと考えるからである。


                          2006.7.24    佐々木利夫


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顔のない映像