C型肝炎をめぐる集団訴訟の最初の判決が大阪地裁で6月21日にあった。手術などに伴う止血のために投与された血液製剤がこの肝炎ウイルスに汚染されていたのは事実であったが、それを投与したことに過失があったかなかったかが訴因である。

 判決はこの汚染を製剤メーカー及びその認可をした国が知っていたかどうかを損害賠償責任の判断基準とした。そしてメーカーは昭和60年8月、国は昭和62年8月から認識しうる状態にあったと認定し、それにも関わらず禁止回収改良などの措置をとらず放置していたとして、その時点以降にこの製剤を投与されて発症した患者9人に対し賠償を認め、この時点以前に投与された者4人に対しては請求を棄却した。

 その時期の認定が適正なのかどうか、原告被告とも裁判所の判断に不満のようだが、私は判決文を読んでいないし提示されたであろう証拠についても見ていないから、それについて論評する立場にない。
 だから、賠償を認められなかった原告がもっと早い時期にメーカーなり国は汚染の事実を認識していたと考えるならそうした主張し続けていけばいいし、もっと遅かった、もしくは過失はなかったと被告が考えるならそのように主張していけばいいのである。そのための三審制(地裁、高裁、最高裁)である。

 だがこの判決に対するマスコミの論評はどうも納得がいかない。それは、ネットで読んだ毎日新聞の今日の見出しが一番はっきりと示している。
 「勝訴の陰で残酷な線引き」、そんなふうに表現していた。ただ朝日新聞は「昭和39年の血液製剤製造承認時から危険性は明らかだった」、「アメリカが製造取り消した昭和52年には日本でも取り消すべきだった」とする原告の主張とこれに対する裁判所の判断を載せ、「司法救済の困難さも明らかになった」として比較的裁判経過を冷静に記述していた。それでも社会面の見出しには「勝訴 戸惑い隠せず」、「家庭壊れ人生まで否定」、「前面敗訴 奈落の底」などと掲げるなど、情緒的な表現があちこちに見られた。

 新聞がそれぞれの立場で主張することに異を唱えるつもりはない。だが今日の記事は地裁の判決に対する論評である。損害賠償事件としての訴えがあり、その判決がなされた。だとするならその論評は判決の認定した事実や主文にいたる理論展開に限るのが当然だと思うのである。

 もちろんマスコミが被害者への同情論、可哀想論などをもとに国なり製剤メーカーの対応を批判するなら、それはそれで任意である。しかしそれは裁判に対する論評とは別のレベルで論じるべきであって、裁判結果を伝える紙面に載せる意見としてはそぐわないどころか間違いではないかと思うのである。

 今回の裁判の争点は国やメーカーの過失責任の有無である。民法709条は「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」と定め、我国は原則として過失責任主義をとっている。
 この規定の趣旨は国家賠償法でも同様であり(同一条)、「偶然」や「不可抗力」には損害賠償責任を認めないと言う考えが我国の司法制度の根幹をなしているのである。

 もちろん制度の中には例外的に無過失責任を認める規定もないではない(民法714条『責任無能力者の監督者の責任』その他など)。
 ただ今回の判決について言えば、判断の基準を無過失ではなく少なくとも汚染の認識の有無に伴うその後の対応という過失の有無に求めたことは明らかであり、原告も判決の認定した時期とは異なるけれどもそうした過失の時期の認定を求めて提訴したことは新聞紙上から見て取れる。

 私は裁判の経過を知らないから、原告側が国やメーカーの無過失責任についても争点の一つとして掲げたのかどうかについて知るところではない。ただ、少なくとも新聞紙上ではその点に触れられていないし、仮に争点とされていたとするなら、それに対する判断を判決は示したはずである。無過失=無責任、私はそうした司法の意思を請求を棄却された4人の判断結果に表われていると思う。

 私は無過失責任を認めなかった司法の判断が誤りだとマスコミが主張するなら、そうした考えの是非はともかくとして主張そのものを批判するつもりはない。
 だが裁判とは厳格な法律の適用場面であるはずである。裁判官は「憲法と法律のみに拘束される(憲法76条3項)」のであり、法的安定は国民が日常的に意識するにせよしないにせよ結局は社会の安定につながるものであって、だからこそ人はそうした世の中に安心して自らの身を委ねることができているのではないかと思うのである。

 ウイルスに汚染された血液製剤によってC型肝炎を発症した患者は昭和55年以降だけでも一万人を超えるという(同、朝日新聞)。だから「こんなに可哀想な人達が現に多数存在しているのだから、無過失であっても国なりメーカーはそういう人たちへの支援をすべきである」と考えるのなら、それはそれでいいのだと思う。法律を超えて国は支援すべきだと思うなら、それはそういう形で主張なりキャンペーンを続けていくべきである。

 だが、三権分立という国家のシステムの中で、そうした救済を裁判所の判断の中に求めるのは筋違いなのではないだろうか。
 マスコミとしては裁判を批判したのではなく、司法には限界のあることを示した上で更なる事実上の救済を求めるための報道なのだと言うのかも知れない。しかし紙面に踊る様々な見出しは決してそういうふうには理解できないのである。
 そうした法律外の認定権限までをも裁判所に求めるような報道、そしてそうした機能を司法に認めてもいいような風潮の助長は、逆に司法制度そのものの崩壊を招くことにもつながってしまうのではないだろうか。

 もう一つ言わせて貰いたい。仮にマスコミが独自の取材に基づいて「国は少なくとも裁判所が認定した時点以前に汚染の事実を知っていた」と考え、それが事実であったとするなら、今回の判断を下した裁判官はそうした事実の認定を誤ったことになる。

 ただここにも問題がある。恐らくそうした事実は裁判の場には出なかったのではないかと思われるからである。裁判官はそうした事実なり証拠が法廷に提出されたのであれはそうした証拠の採否を判決の中で示したであろうし、裁判の場に提出されなかったとするなら、その原因によってはマスコミの驕りだと批判されても仕方がないばかりか、裁判結果に反映されなかったことをマスコミ自身が批判するなどもってのほかということになろう。

 世間の耳目を集めるような判決が示される場合、テレビ向けだと思うのだが、「勝訴」とか「不当判決」などと書いた大きな紙切れを持って走り回る人の姿が映し出されることがある。時には被告である国の機関や会社に押しかけて控訴、上告を断念するよう要求するなどの姿もある。

 まあ、敗訴したその人にとっては口惜しさのあまり「不当」と叫んだり、「非情」と嘆いたりするのは理解できないことではないのだが、弁護団までがその尻馬に乗って踊っているのは、法を順守すべき自らが逆に司法の信頼を揺るがしていることになっているのではないかと、他人事ながら気になっているのである。

 ましてや公正を旨としていると自認しているはずの新聞やテレビまでもが、裁判とは無関係なレベルで判決を論評するのに到っては・・・・・、とも思ってしまうのである。




                          2006.06.22    佐々木利夫


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過失責任・無過失責任