三匹のこぶた
  
 姉妹や兄弟が三人いて、数ある難題に直面する中で一番の末っ子ががんばって解決するという物語は、日本に限らず中国やロシア、ヨーロッパなど世界中の童話や伝説の中にけっこう存在する。イギリスか発祥だとされているこの三匹のこぶたの物語もそうした系譜に入るものだろう。

 誰もが知っている話だから詳しくは繰り返さないが、こんな物語である。

 昔々、あるところに三匹の子豚が住んでいました。長男は家を建てるのが面倒なので、簡単に作れるわらの家を作りました。次男も簡単な木の家を建てました。でも三男は、一生懸命にレンガの家を築きました。
 そこにこわいオオカミがやってきました。オオカミはわらの家を、一息で吹き飛ばしてしまいました。次男の木の家も簡単に壊されてしまいました。
 長男と次男は命からがら三男のレンガの家に逃げ込みました。オオカミはレンガの家に襲いかかり、爪をたてたりかじったりしました。
 でも頑丈なレンガにとても歯が立たず、爪もボロボロになり、肩を落としてとぼとぼと帰りました。

 この物語にもいくつかの変形があって、それでもあきらめきれないオオカミは煙突から忍び込もうとするが、暖炉に薪を燃やされて逃げ出すというのもあるようだ。

 兄二人を守った満足げな三男の顔が見えるようであり、童話だから恐らく三男は当然のことをしたんだとしてお兄さんたちと仲良く暮らしましたとさと言うことになるのかもしれない。

 だが考えてみると、このオオカミ撃退の物語はこのことではなんの解決にもなっていないことに気づく。もちろん、オオカミは爪をボロボロにして引き上げたのだから、恐らくこのレンガの建物を再び壊そうとすることはないかも知れない。失敗を学ぶその程度の知恵はオオカミにもあるだろう。

 それではそうしたオオカミが建物の破壊に失敗したという結末で、彼ら三匹のこぶたの生涯の安全はきちんと確保されたのだろうか。
 例えとしてふさわしくないかも知れないけれど、三匹のこぶたならぬあなたは誰の目から見ても憧れの美少女である。対するオオカミはあなたを食べてしまいたいほどにも好意を寄せているストーカーである。

 後をつけられ襲われかけたあなたは危機一髪、戸締りのしっかりとした部屋の中へと逃げ込むことができた。かろうじて玄関のドアに鍵をかけることができ、チェーンも間に合った。強化ガラスの窓もロック万全である。あなたはそこでホッと一息つく。なんなら、冷蔵庫のケーキで心を落ち着けたっていい。
 でも、それであなたは心から安心できるのか。明日からの生活に何の不安もないのか。

 物語を読んですぐに分かることは、オオカミが諦めたのは単にレンガの建物を壊すという行為だけにしか過ぎないということである。
 「美味いこぶたを食いたい」というオオカミの信念に対して、このレンガの建物は一時しのぎ以外何の役にもたっていないのである。

 この物語は防災について語っているのだとするならそれはそれで分からないではない。わらの家や木の家では激しい風雨に耐えられないことを言いたかったのだとするならそれはそれで分かる。どんな風雨にも耐えられるようにレンガでも鉄筋コンクリートでも使って頑丈な建物を建てることが安全に結びつくのだという理屈はなるほどその通りである。

 でも考えても欲しい。オオカミは暴風雨ではないのである。もちろんそうした一面を有していることに違いはない。だがオオカミの目的は建物を壊すことにあるのではない。美味いこぶたを食いたいという、こぶたにしてみれば命を脅かされる危険一般なのである。

 こぶたはそのレンガの建物から生涯出ることはないのか。そういうことならオオカミに襲われるというこぶたの危険は避けることが可能であり、とりあえず問題はすべて解決する。オオカミが爪以外にハンマーや重機を持ってきてこの建物の新たな破壊に挑戦するなどというストーリーはこの際考えないことにしよう。レンガの建物に爪が立たなかったということで、建物破壊は不可能と言うシナリオは童話の世界とは言え既に確立していると考えて良いのだから。

 ならば食い物や水はどうする。仕事や学校はどうする。遊びに外出することはしないのか。この三兄弟は自分たち以外の者と付き合うことはないのか。オオカミの目的はこぶたを食うことでありそれ以外にはない。こぶたが狙われているのは建物ではない。命なのである。
 しかもその命を狙われているという事実は犯罪によるものなんかではない。オオカミがこぶたの命を狙うのは生きていくための当然の行為である。食物連鎖なんぞという小難しい理屈を持ち出さなくたって分かる自然の摂理だといってもいい。

 つまりこの物語の本質はこぶたの命(善)を狙うオオカミの毒牙(悪)という善と悪の対立にあるのではなく、自然が作り上げてきた生物の営みの延長として、むしろ正義対正義の問題として考えなければならないものなのである。

 あえて言おう。こぶたが生き延びるためにはオオカミの死か隔離しかない。オオカミのいない状況を作り上げる以外にこぶたが生き延びるチャンスはあり得ない。こぶた自らがオオカミのいない環境へ移り住むか、それともオオカミを抹殺するか、それともどこかに牢屋でも作って彼を幽閉してしまうか、それしか方法はないのである。

 最近のNHK教育テレビの子供向け番組の中に、オオカミと子ひつじの友情を描いた絵本の朗読が何日か続けられていた(あらしのよるに、木村裕一著)。毎日毎日のひもじさに、つい子ひつじを餌として考えてしまうオオカミの感情はなんだか奇妙に納得させられるものがあった。
 ならばこの物語にもこぶたとオオカミが仲良く暮らすというストーリーは可能なのか。それは無理である。なぜなら、オオカミに草は食えないからである。

 数年前の外国映画に「パニックルーム」というのがあった。借家の下見に行った母と娘が強盗に侵入され緊急避難用に作られた外部から決して侵入されない密閉空間に逃げ込む話である。物語は逃げ込んだことで終わりになるのではない。映画はここから始まるのであり、どうやって外部と連絡をとるのか、どんな方法で脱出するのかのホラーである。密閉空間は決して安全ではない。逃げ込んだことと閉じ込められたこととはどこが違うのか。

 人間世界のストーカー対策なら家庭や学校や警察など、第三者があなたを守ってくれるシステムが存在しているけれど、この三匹のこぶたにはそうした助けはない。だからこの三男のこぶたの知恵は、自らを外界から隔絶し、自分の殻の中に閉じこもろうとするものであって、最近話題になっている「引きこもり」の発想と何の違いもないのである。

 飢えたこぶたがオオカミの毒牙にかかるのは、このレンガの建物に入ったことで既に秒読みの段階に入ってしまった。オオカミは玄関のドアの前で昼寝しながらあなたが空腹に耐えかねて出てくるのをじっと待っているだけでいいのである。

 さあ、あなたならどうする・・・・・・・。





                     2006.04.26    佐々木利夫



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