変貌するくれない族
  
 もう10年にもなるだろうか、会社などの中堅スタッフで交わされる若者論議の中に「くれない族」の存在が話題になったことがある。こうした一括りの熟語に若者を押し込めて総括してしまうのはそれなり危険でもあり、場合によっては分かり易い分だけ誤った方向を示してしまう恐れもあるけれど、けっこう本質を突いている言葉として人口に膾炙していた。

 「くれない族」とは、いわゆる指示待ちの状態に止まっていることを当たり前だと理解している若者集団を一まとめに揶揄した言葉である。
 つまり「教えてくれない」、「指示してくれない」、だから「私はできないのだ」と答える若者が多いことを嘆く言葉であり、この「・・・くれない族」の意識はやがて「ヒントを与えてくれない」とか「やる気を起こさせてくれない」という相手を批判するスタイルにまで発展し、当時の指導的立場にいた中堅幹部職員の顰蹙(ひんしゅく)を買うことになる。

 そうした若者に対する中堅幹部の言い分はこうである。要するに若者がそうした「くれない」を連発するのは「どうしたら一番楽に仕事ができるか」が根底にあるからであり、そうした考え方に対して教える側としては「それは君たち自身が考えなければならないことではないのか」と言いたいのである。

 そして時は流れた・・・・・・・

 ところでくれない族は今でも健在だが、どうやら最近のくれない族は昔のスタイルからは大きく変貌してきているようだ。
 「助けてくれない」、「やってくれない」という考えがどうやら慢性的な症状を見せ始めているような気がする。かつてのくれない族には、少なくとも意識の上では「教えてくれさえすればきちんと後は自分でやる」という背景と言うか基本があったような気がする。

 そうした流れがいつの間にか「全部くれない」に変ってしまったような気がしてならない。一番の「くれない」は、「自分の人生の指針となるべき生涯の仕事を誰も見つけてくれないこと」である。

 そんなのは他人(ひと)から与えられるものではなく、「自分で見つけるもの」だし、むしろ「自分で育てていくもの」だと私なんかは思っているのだが、鍵付きテレビ付きの個室で食べ物にも小遣いにも不自由なく育てられた若者としては、自分で見つけるなんぞと言うそんなまどろっこしいことはしていられないのである。

 大体が、心から欲しいと思うものがない。思い悩んでねだる前に両親は黙っていてもクリスマスプレゼントやら誕生祝などにかこつけて見境なく与えてくれた。
 おもちゃもゲームもパソコンも携帯電話も、自力でバイトしてでも獲得しようとか家事の手伝いなどをして自力で取得できる環境を作り出そうなどの努力をする前に、ある日突然に目の前に自動的に降って湧いてくるのである。

 つまりは挫折の体験がないのである。成功体験とまではいかないまでも、失敗とか我慢とか辛抱などといった人として当然にありうる体験は遠い物語の世界なのである。
 だからと言って幼児から青年に成長する過程で、願いが必ず叶うという保証のないことに子はやがて少しずつ気づいてくる。自分の思い通りにならない様々にぶつかることになる。

 さあ、どうする。戦うことなどこれまで経験したことなどない。我慢も同様である。ましてや努力することなんぞやったことすらないのだから無理である。だとすれば逃げるしかない。本能的に危険や破綻を察知し、そこから避難するのである。逃げても保護者は常に受け入れてくれる。いやいや、危険に立ち向かおうとするそのこと自体、保護者は許してなどくれないのである。

 そんな身に、仕事や生涯設計だけは自己責任だとホッポリ出されたからといって、そんなに簡単に乗っかっていけるわけではない。ましてや職場や社会と言う他人集団に入ってしまったらなお更のことである。

 そうしたとき、一番手軽なのが他人(ひと)のせいにすることである。結果が悪かったのは自分のせいではなくそうさせた他者が悪かったからである。計画がその通りに進まないのは、計画の良さに対する実行者の実力がついていけないからである。

 時に成功する者がいたとしても、それはその人の実力なんかじゃない。場合によっては私の力や他の人の努力の横取りだし、たまたまラッキーが重なっただけである。

 さてもう一歩進んで考えるなら、「私の挫折」は、そうした挫折するような作業そのものを与えた相手が悪いのである。成功するための安全なレールを敷こうとしなかった立案者が悪いのである。
 だとすればそうした作業にその気になってチャレンジしたことこそが挫折への入り口になる。チャレンジがなければ失敗もない道理である。もちろん成功もないかも知れないが、これまでの経験からするならば成功や満足はいずれ誰が助けてくれるだろうし、そのうち天から降ってくるかも知れない。その時までじっと危険を避けながら首をすくめて生きていくのにこしたことはない。

 恋愛も地球環境も、「今の私」が安穏と過ごしていくことにそれほど関わりがあるとは思えない。みんなと同じ服装をして、みんなと同じ携帯を持ち、「なんとかなる」空間に首すくめて生きているだけでいい。それでもうまくいかない場合があるかも知れないが、それは社会の責任なのだから誰かが何とかしてくれるだろうし、なんとかするのが政治や社会の責任である。

 そうした思いに引きづられていく若者の気持ちが分からないではない。管理社会に首までどっぷり漬かって生きていかなければならない現代人にとって、危険や冒険などは物語の世界だけで十分であり、下手に我が身に取り込んだところでリスクだけ降りかかってくるのが関の山である。そうした気持ちは私自身にだってちゃんと根付いていることくらい検証しなくたって分かる。

 ただそうした若者から次の世代が生まれてくるのである。若者からしか次の世代は育っていけないのである。

 大人も子供も「怒り」やすく、「キレ」やすい時代になってきている。それだけ辛抱することの力が失われていっている証左でもあるのだろう。他者を責め続け、最後は国に「なんとかせい」と言い続ける風潮の背景には、「くれない族」の変貌と蔓延が影響しているような気がしてならない。

 特効薬はあるのである。「少しの我慢」・・・、このワクチンがどうしても必要な時代になっているのではないかと、少しの間も急かされているようにメールを打つことにしがみついている若者を見るにつけ、へそ曲がりな老税理士はつい感じてしまうのである。


                     2006.09.13    佐々木利夫



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