釧路は北海道の東の果てに近い港町である。これ以上東は根室そしてノシャップ岬であり、あとは国後択捉などなどの北方領土へと続く。そう言われてもすぐに実感の湧かない方は毎日の天気予報の全国版を思い出してもらいたい。大体が沖縄から始まって名古屋・大阪などの中部地方と関東から北海道の2画面になることが多いが、その気温の分布がまさに釧路を教えてくれるのである。

 日本は南北に長いから一般的に言って沖縄の気温が一番高く北海道へ行くに従って低くなっていく。例えば今日である。その時の気象条件によるだろうが沖縄は31度、東京も31度だった。それから少しずつ下がっていって札幌の今日は26度、そこまではだいたい常識的な推移である。

 沖縄、東京、札幌へと、天気予報の気温は1度から2度くらいずつ下がっていくき、そして北海道。北海道は通常4箇所表示される。左が札幌、上が稚内、中央が旭川、そして右が釧路である。旭川は内陸地帯なので時に札幌よりも気温の高い時があるが、それでも東京を超えるようなそんな非常識な数値になることはない。稚内も最北端の割には比較的常識的な数値である。
 だが釧路は違う。その証拠に今日の昼の気温は16.1度だった。実に札幌よりも10度も低いのである。想像してみても欲しい。気温16度はコートが欲しいと思うほどの寒さである。

 だから天気予報の全国気温表示の画面を見ていて、沖縄から北へと順次気温が下がっていくことをなんとなく眺めている時に、突然にガクンと下がった表示があったらそこが釧路である。その極端な下がり具合は夏ばかりではなく、冬も同じである。

 この釧路に昭和44年から2年間、勤務したことがある。苫小牧で結婚し子供二人を抱えた家族としての最初の転勤であった。
 もちろん釧路は始めての勤務地である。この地は北から降りてくる千島海流(寒流)と関東沖から東北を北上してくる黒潮(暖流)がちょうど沖合いで合流する地域にあり、そうした地理的条件から来る必然的な事実として昔から霧の街として知られていた。

 情緒的かも知れないけれど、「霧の街」と言うイメージは決して悪いものではない。街の中央を流れる旧釧路川、そしてその川にかかる幣舞橋(ぬさまいばし)、そんな街に漂う夜霧のイメージは平凡な表現になるけれど少し古いモノクロ映画そのもののロマンティックな風景である。霧の漂う街灯はどんなに明るく輝いていたとしてもそれはガス燈と呼んでもいいほどであり、それはもう風景ではなく情景である。

 それにもう一つ。その10年ほど前から、地元出身の若い小説家原田康子の「挽歌」が爆発的な流行を見せていた。昭和31年に発表され映画化もされたこのベストセラー作品は、釧路の街を一躍世間に知らせることになったのであった。

 かたくなで、あまのじゃくで、世間知らずの22歳の主人公怜子、自らをママンと呼ぶ桂木夫人の密かな不倫、その夫である桂木との行き止まりの恋の物語は、当時高校生だった私にははるかに遠い大人の世界ではあった。だが、僅かにしろ文学青年を夢見ていた少年にとって、見知らぬ釧路の地が突然にロマン溢れる特別の地として記憶の中に刷り込まれることになったのであった。

 「霧が、まるで地の底からわくように、窪地から這いあがりだした。その渦巻くような霧のなかを、女の子を抱いた男が帰って行く。女の子の腕には仔犬とマリが抱かれている。」怜子と桂木の始めての出会いであった。

 「霧がつめたくなったので、私はブラウスの衿をたてた。わたしはなんだか、咬まれた傷口ではなく、左肘が疼きだしたような気がした。寒くなると、わたしの左肘はときたま痛むのだ。わたしは、冬が、じきその辺りまできたようにおびえた。天候の急変を告げているらしい霧のなかに、冬の匂いが混っているようにおびえた。」出口のない恋を予感させる霧へのおびえである。

 「海霧は夜になって濃くなってきた。風も出はじめていた。飲食店や商店の装飾灯に染められて、渦まくように流れる海霧の中を、私はハイヒールの靴音を小刻みにひびかせて住友ビルにむかった。わたしは、わたしの顔に冷たくまつわりつく海霧が、なんとなく気味悪かった。」会うことはこんなにも嬉しいのに、男の優しさに女はなぜか苛立ち尖った言葉を投げつけてしまう。

 「陽がかたむきかけ、薄い霧が森の奥からにじみでるように湖岸の道にただよいはじめていた。車のなかでわたしは温和しくしていた。・・・・わたしたちは何気ない会話を交わすのかもしれない。わたしはそんなつもりだ。」桂木夫人は自らの命を絶つ。霧は怜子と桂木の隙間を通り抜けようとしている。

 書棚の奥にひっそりと忘れられていたこの本(昭和32年、東都書房)を改めて読み返してみる。霧は物語いたるところにまとわりついていて、離れようとはしない。

 そんな釧路への転勤である。仕事はどこも同じかも知れないが、ここは阿寒や摩周などの観光地も近いし、苫小牧よりも大きなやりがいのある街である。胸ふくらませての着任であった。

 だが着いた釧路の7月は寒いのである。忘れもしない、着いた日は花火大会当日だというのに、霧がたちこめ厚い雲に閉ざされた釧路は寒くて寒くてたまらないのである。ストーブは引越荷物の中に入っているが、季節は7月である。煙突の設置も燃料の用意もない、第一まだ荷造りされたままである。荷ほどきのほとんど終わっていない家財に囲まれて、幼い子供たちはメソメソし出すなど、みじめな気持ちになった釧路の第一夜が始まった。

 何日かが過ぎて、こんなものなんだと少しずつ釧路に慣れてきた。ならば憧れの釧路である。時に子供を友人に預けて夫婦で夜霧の幣舞橋を歩いてみるのも悪くはない。借り上げの民間アパートだが、釧路駅へ向かうバス停3つばかりで幣舞橋である。橋を数回往復し、喫茶店でコーヒーを飲んだところで、1〜2時間もあれば戻ってくることができるだろう。真夏の釧路はほぼ毎日が霧である。少し寒いので薄手のコートをまとって念願の「霧の幣舞橋」へと出かけることにする。

 霧は静かに漂うものである。街灯にまつわりつき、あらゆる風景をモノトーンにしてしまうマジシャンである。私の抱いた霧のイメージはそんなはずであった。乳白色のあいまいな風景の中をどこまでも歩き続けられるような、そんな絵画のような情景をかもし出してくれるはずのものであった。

 だが釧路の霧は違ったのである。釧路の霧は横に降るのである。雨のように降るのなら傘がある。だが、釧路の霧は横に降るのである。雨のままの状態で中空に浮いているのである。停まっていても着ているコートに正面からぶつかってくるのである。顔にも腕にも、流れる霧はまともにぶつかってくるのである。しかも霧の粒は目に見えるようにも大きい。
 コートからは瞬く間にしずくが流れ落ちはじめ、顔も頭も、数メートルと歩かないうちに水しぶきを浴びたようにびしょ濡れになってしまう。

 長年思い描いてきたガス燈の風景も原田康子への長い間の思慕も、この土砂降りのような霧の前にはなすすべもない。片道だけの幣舞橋を後にして、ロマンティック幻想の二人は喫茶店にも寄ることなく早々にバスへと飛び乗ったのであった。



                        2006.7.8    佐々木利夫


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霧の街釧路
  

夜の幣舞橋