最近、「うつ」が専業主婦だろうが職業人だろうが妊産婦、老人、若者、小児にまで増えてきているという。本当に増えているのか、発見手法の精度が高まってきたからなのか、それとも最近のなんにでも「症候群」などという語尾をつけたがる風潮がそうした症状の病気としての命名に寄与しているのか、その辺のところは必ずしもよく分かっていないのだが、世の中「うつ」も含めて心療内科おおはやりの時代である。
「うつ」とは直接関係ないかもしれないが、精神医学の病状の中に強迫性障害というのもある。ある行為や考えにこだわってそこから抜けられない、そんな人の心を呼ぶらしいが、ざっくばらんに言っちまえば「分かっちゃいるけどやめられない」症候群のことであろう。
だが考えてみるとそうした「こだわる心」というのはそんなに特殊なものではないのではないか、むしろ、どんな人だってどこかこだわることで生きているとすら言えるのではないだろうかと、私なんかはついつい思ってしまう。
仕事、遊び、家族、生活・・・・、人はこだわりからそもそも抜けられない、もしくは抜けないことにこだわることでそれぞれの人生を模索し構築してきたのではないだろうか。
かく言う私だって、最初に選んだ税務職員という職業に、結局定年と言う仕事人間としてのエンディングまで付き合うことにこだわったことになる。更にもっと言わせてもらえるなら、今現在それほど熱心に向き合っているとは言えないまでも、この税理士と言う仕事だってそのこだわった職業の延長線上にある。
SF小説が好きだ、暇だと髭を抜く癖がある、スポーツ番組は見ない、事務所通勤は必ず歩く、一週間も断酒すると飲まずにはいられなくなる、酒は日本酒に限る、RPGテレビゲームを現在も続けている、毎週月曜日には必ずホームページでエッセイを発表しようとしている、パチンコなどの賭け事は大嫌いなどなど・・・・。
そのほか日常生活だろうが、趣味の分野だろうが、はたまた意識しようが無意識だろうが、こだわり続けていることなどはあふれるくらい当たり前に私の中には存在している。
少し話しは変るが、かつて職場にいたとき、そのたびにどことなく抵抗感のあったのが定期的な健康診断での問診表の記入であった。一枚の紙に体の調子から気持ちの状況などに関した100問近い質問が並べられている。そしてその右横に三箇所の回答欄が置かれ、その内の一つを選んでチェックをつけるようになっている。
今となってはその回答すらよく覚えていないけれど、大体「ロ しばしばある」、「ロ 時にある」、「ロ ない」の三つだったと思う。中には酒を毎日飲むかとか、どのくらいの量かとか、タバコは毎日何本吸うかなどといった具体的な数値を記載する項目もあったけれど、ほとんどが目的とする診断に必要な症状に対する自覚症状の有無を問うものである。
たいていの質問には、こうした三者のいずれかの選択が可能である。特に腹が痛むか、頭痛がするか、便秘しているかなどの具体的な身体症状などはチェックがつけやすい。
ところが質問の範囲が心療内科的な分野に及ぶと、とたんにチェックが難しくなるのである。いらいらするか、腹のたつことが多いか、自分をダメだと思うことがあるか、食欲のないときがあるか、職場を休みたいと思ったときがあるか、落ち込むことが多いかなどなど・・・。
試験問題の回答ではない。だから模範解答を忖度してチェックするのはむしろ誤りで、素直な事実の表示こそが求められている。
さて、「いらいらすることがあるか」・・・・、と聞かれて「ある」と答えたら精神的に問題ありとされるのだろうか。だが、「ない」と書くのは嘘である。
「憎い」にだって「気に食わない」程度から、「殺したい」程度まで様々だろう。だから、人間やっていて「いらいらしたことなどない」なんてことはあり得ない。
そうは言っても、「いらいら」とあっさり言われても、テレビのお笑い番組で発散してしまう程度のものから、何日もはらわたがキリキリ傷む程度までさまざまであろう。それを、あっさりと「ある」にチェックをつけられるかというとかなり心理的に抵抗がある。
チェックに迷っているのは、その「いらいら」が軽いか重いかという「程度の問題」なのだから、「ある」とか「時々ある」という質問形態で解決できる問題ではない。ましてや「ない」とするのは完全に嘘である。
それでは問診表の質問に「程度の問題」を勝手に加味することにしてはどうか。つまり、「いらいらするか」の質問の前に、「(自分で異常だと感じる程度の)」という前提をつけるのはどうかということである。そうすれば解答欄のチェックに対する迷いはなんとか自力でクリアできそうである。
だがそうした前提を勝手に作り上げること自体に問題はないのか。専門家が判断する前に自己診断で結論を出してしまったら、健康診断と言う目的が意味をなさなくなってしまうのではないのか。
問診がこの一問だけだったら、「ある」と書いても場合によっては「ない」と書いても、なんとか弁解可能である。だが次の質問が待っている。「自分をダメだと思うことがあるか」。仕事はどんな場合も評価がついてまわる。成功を目的とするか、失敗しないことに視点を置くか、はたまた新しいアイデアを認めてもらうか。その評価は上司や部下の場合もあるけれど、多くの場合まず自分である。
自分を天才だと思うほどの自惚れはないにしても、「もしかしたら俺ってけっこう頭良いかも・・・・」と思うときもないではないし、悔やまれる結果に「俺はダメ人間だ」と思うときだってないではない。
しかも、回答の「しばしばある」と「時にはある」の違いはどこで判断すればいいというんだ。少なくとも「ない」にチェックするのは間違いなく嘘を書くことになるし、しかもそれほど自己過信が強いわけではない。
そして前の質問と同じように、程度の問題がここでもからんでくる。一晩眠って忘れてしまえる程度のものか自己嫌悪で何日も眠れないほどのものか・・・。
二つ目の質問にも「ある」にチェックがついてしまった。更に質問は続く。職場を休みたいと思ったことがないかと言われれば、「ない」と答えるだけの自信はない。数十年にも及ぶ仕事の連続である。時に上司への面倒な事件の報告を抱えながら朝の快晴に「あーあ、今日はやけにいい天気だなぁ・・・・」などと思ったことなどそれほど珍しくはない。
かくして考えれば考えるほど、問診表の回答には「ある」の数が増えていく。この問診表だけで診察結果を出すわけではないだろうが、少なくともペーパー上では私は「ある」が並んだ精神的に問題のある者になってしまう可能性が大きい。
もちろんそのことでそんなに落ち込んでしまうわけではない。大体がどんな人間だって、「多少の」と言う接頭語をつけるならば「ある」にチェックがつくのが当たり前だと、密かに心の中では思っている。
結局はそうした「ある」が、社会生活であるとか家庭の問題、様々な人間関係にどの程度の障害を与えているかということで判断すべきなのだとは分かっている。
それでもそうした判断は他人がするのか、自分がするのかは依然として解決のつつかないまま宙に浮いている。
「他人(ひと)がどう思うにしろ、本人が納得していればそれはそれでいいではないか」と言う考え方だって、そんなにおかしくはない。他方、「寝食を忘れて・・・」であるとか、「○○一筋・・・」だって、熱心さの表われだと言ってしまえばそれまでだけれど、考え方によってはかなり異常な場合もある。
なぜこんなことを書いたのか。それは「うつ」を始めとする最近のあまりにもこうした精神に問題ありとする人の多さが気になるからである。
正常と異常はどこかで線引きできるのかも知れない。ただ私のような素人判断からすると、その「線」はきちっとた座標軸のように決められるものではなく、連続し果てしなく続くグレーゾーンの中にあるのではないかと思うのである。
そしてもちろんそうした精神の病を「病として認識する」ことは大切なことだと思うのだけれど、最近の風潮を見ていると「病であることの中に安住してしまう」ことの弊害も出てきているのではないかと思ってしまうのである。
その異常の判断を「他人による承認の程度」に置くことでいいのだろうか。そうだとするのが常識かも知れないし精神科医などと言う存在そのものがそうした事実を示しているのかも知れない。
だが、そんな風に言ってしまえばかく言う私の中にだって、多くの異常が見つかるのではないかと思ってしまうのである。
人は平均値ではない。へそ曲がり、偏屈、固執、頑迷、わがまま、独善、意地っ張り・・・、人が平均値から外れたことを批判する言葉は多い。だがそれは、別な言い方をするならば「そうした平均からの外れがあるから『その人』なんだ」し、「いい面も悪い面も含めてそれが一つの人格を作り上げているのではないか」とも思えるのである。
実はこの前友人と酒を飲んでから今日で一週間になる。自宅では飲まないようにしているので、結果としてこの一週間酒が切れていることになる。なんだか無性に飲みたくなりかけてきているのである。
明日の土曜日、娘と孫が遊びに来ると言っていたので、娘相手に飲めるかなとも思っていたのだが、都合で一週間延びることになってしまった。友人に声をかけて事務所でいつもどおりの居酒屋を開くのもいいのだが今からでは遅すぎる。
土・日をクリアすれば断酒10日継続という自分しか褒めないダイエット報酬にはなるのだが、さてどうしたものか。酒で自分にも他人にも迷惑かけたことなど一度もないと自負しているから、アルコール依存症ではなく、単なる酒好きなんだと自分では思っているのだが、その判断はだれがするのだろうか。
仲間に一人、「酒を美味いだなんて言うやつの気が知れない」とのたもう男がいる。私とほぼ同い年だからこの数十年間生きてきて、なんと彼はただの一度も酒を美味いと思ったことがないのである。だから私は確信を持って断言する。「そいつは間違いなく異常である」・・・と。・・・・・・ん?。
2006.09.01 佐々木利夫
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