2006年1月23日(月曜日)夕方、IT時代の申し子などともてはやされていたライブドアの堀江社長(逮捕後に社長を解任されたし、俗称ホリエモンのほうが通りがいいので今後ホリエモンと呼ぶことにする)が証券取引法違反の疑いで検察庁に逮捕された。その一週間前にライブドアや関係機関などに対して捜索が行われて以来、あらゆるマスコミのはしゃぎようは異様なまでである。

 今回の逮捕は現行犯逮捕(刑事訴訟法第213条)ではないから、検察庁が「罪を犯したことを疑うにたる相当な理由がある」(同199条)と判断し、あらかじめ裁判官の発行する令状を得て行ったものであろうから、仮に将来においてその逮捕そのものが誤りだったとしてもそのこと自体にとやかく言うつもりはない。

 だからそうした捜索・逮捕はあくまで「疑い」の段階であり、犯罪の事実の立証なり確定は裁判によるものでなければならない。だからこそ俗説にしろ「疑わしきは罰せず」であり、容疑者は「有罪が確定するまでは無罪の推定を受ける」のである。
 つまりは「逮捕=有罪」の図式は決して成り立たない、許してはいけないと言うのが誰にも曲げることのできない日本の法制度の基本である。

 犯罪被害者やその家族が「加害者の人権が声高に言われるのに、被害者の人権はどうなっているのだ」と怒りの声を上げる一因は、こうしたところにもあるのだと思う。

 もちろん犯罪の多くは加害と被害の事実が比較的はっきりしていることが多い。テレビドラマの見過ぎかも知れないけれど、血まみれの凶器を握った犯人が死体の前に呆然とたたずんでいるところを現行犯逮捕されるという図式や、指名手配の逃亡犯が知人宅などで逮捕されるという、言わば犯罪の事実や犯人の特定が白日の下に明らかにされている自然犯の例が多いとも言える。

 だが今回の事件はそんなに素人にも分かるような犯罪の事実が明らかになっているものではない。ことは証券取引法違反と言う社会犯であり、恐らく国民の多くが法律そのものを知らず、ホリエモン等の行為が犯罪だとも理解できていないのではないのだろうか。単に検察庁が逮捕したこと、マスコミが悪だと騒いでいることでそう思い込まされているだけではないのか。
 にもかかわらず、この事件に限らずワイドショーねたにふさわしいと思われる事件についてはほとんどがそうなのかも知れないけれど、マスコミの取り上げ方は異様である。

 第一は犯罪の断定と自白の強要、そして言い訳そのものに対する徹底的な嫌悪である。
 それはあたかもドラマで演じられる水戸黄門の中の作られた悪代官のイメージと同じであるかのように見える。確かに犯罪人が自己保身に出たり、事実から司直や世間の目をそむけさせるための偽りの事実を画策するなどを意図している場合がないとは言えない。ケースによってはあたかも自己の行動が正しかったのだとする虚偽の事実をでっち上げようとしていることだって考えられる。

 でもそれだっていいではないか。逮捕の事実は犯罪の疑いであってその証明ではないはずであり、それに対する断罪は検察でも国民でも、ましてやマスコミでもないはずである。「疑わしきは罰せず」は法治国家としての最も基本的なルールではなかったのか。

 「聞く耳持たず」のマスコミの飽くなき断罪は、拷問によって自白を得ようとする時代劇の悪代官に象徴される抽象化された悪の姿、証明不要の配役に割り当てられた悪ものもののようである。
 それはあたかも「相手を責めること」そのことを正義だと思い込んでいる妄想のかたまりであり、狂信的な身勝手さそのものである。

 第二は移り気である。逮捕からその夜の拘置所へ移送するまでを、逮捕者が乗せられているであろう車列をヘリコプターを使ってまでカメラは執拗に追いかけていた。
 そのことに何の意味があるのだろう。逮捕され一定期間取調べのために拘置される、そのことのどこにそんなに報道として追いかける必然性があるのだろうか。

 にもかかわらずマスコミは数週間のうちにこのニュースを追いかける熱意を失っていくだろう。新しいニュースが起きる。それは地震なのか総理大臣や芸能人のスキャンダルなのか、はたまた猟奇的な殺人事件なのか、それは分からないけれどマスコミは新しい獲物を求めてこのライブドア事件などあっさりと姿を消していくことだろう。マスコミが悪だと認定したことを司法が判断していないにもかかわらず、マスコミは急速に事件に対する興味を失っていくことだろう。

 この逮捕劇に合わせるように1月21日から通常国会が始まった。そして23日から開会日の首相の所信表明演説に対する各党の代表質問が始まりその一部始終がテレビで中継された。
 ところで、昨年8月から9月にかけてに郵政民営化を掲げた小泉首相の意表を突いた衆議院解散総選挙が行われ、自民党の大勝利に終わったが、その選挙の立候補者の中にこのホリエモンがいた(亀井静香と広島で対決して落選)。

 自民党の公認候補にこそならなかったが、彼を自民党の推薦候補として有力議員が応援演説などで積極的に支援したものだから、この選挙で大敗した野党は今回の逮捕事件を鬼の首でもとったように小泉政治の失敗として首相の責任論まで持ち出すなどかまびすしい。
 政治の世界はそんなものだと言ってしまうのなら、まるで素人たる私がとやかく言う話ではないかも知れないが、テレビの中継と言うのはパフォーマンス要素もあるだろうけれど国民に対するアピールでもあるのだろうから、知らないで応援したことに責任論までつけて追求するような行動は、とりあえずこれでも国民のはしくれであろうと自認する私にはどうにも合点がいかないのである。

 ほんの少し注意すればホリエモンの悪の仮面を見破ることができたはずだ、彼の悪は周知の事実だったというのならともかく、今回の事件は検察の捜索があって始めて発覚したものである。それまでマスコミも一般投資家もテレビを見ている多くの人々だって、自家用飛行機まで持っているホリエモンに多少のやっかみは別にしてもこぞって成功者として持ち上げていたはずである。攻撃の先頭に立っている民主党だってホリエモンの立候補擁立に動いたとされているではないか。

 「結果悪」について、「始めから知らなかったこと」そのものについて指弾されるだとしたら、あらゆる政党が汚職、選挙違反、セクハラなどなど、一点の非の打ち所のない人物だけを選んで構成されているなんぞ、誰にも言い切れるはずのないことは発言している本人自身が知り尽くしているはずである。

 「法に触れなければ何をやってもいい」などと正面切って威張られたり開き直られたりすると、私もそうだけれど、感情論としてはどこか「カチン」とくることは否めない。

 でも罪刑法定主義のもとで、刑事事件について言うなら、そうした「法に抵触しなければ・・・」という考えは正論として認めてもいいのではないだろうか。「法の抜け穴を探す」という言葉は、いかにも姑息で悪徳の権化みたいな表現になる。しかしそれによって許すことのできないような事態が生じたとするなら、それは立法機関である国会や執行する機関の怠慢、もしくは同業者組織などの身内のルールを定めるべき関係機関などの自浄機能の欠如などを責める要素にはなるとしても、生じた望ましくない結果を犯罪として処断することなど許されないはずである。

 「悪法も法なり」などと、無辜の極みに住んでいるような言い方は気に喰わないけれど、それが法治国家としての最低限のルールではないのか。そうした最低限にしろ基本的なルールに守られた世界を、人は社会と呼び国と呼んで、その中で自由と信頼の安定した生活を送ることができると考えているのではないのか。

 1月26日の新聞は粉飾の疑惑が持たれている2004年9月のライブドア決算に対し、弁護士も会計監査法人も適法との意見書を付していたと報道している。
 もちろんそうした意見書の提出はその企業に関与している者の報酬を得ている職務として当然考えられる行動であり、そのことが絶対的な適法性を証明するものではないことくらいは私だって承知している。

 しかし私は少なくとも「法に触れなければ何をやってもいい」という意見の背景には、その人の一方的独断的にしろ違法でないことの理屈くらいは作り上げられているはずである。そうした理屈なり行動が、犯罪として成立するかどうかを判断するのは、三権を分立させた法治国家としての裁判所の仕事である。

 にもかかわらず小学校時代の写真まで持ち出し、当時の学校の先生のインタビューまで映し出して逮捕者の幼児期の性格分析までやってのけるなんぞは、報道機関として絶対に変である。

 事実の報道をするなと言っているのではない。そしてどんな事実といえども、どうしたって報道には、ある種の意見や感情が入り込まざるを得ないことまで否定しようとは思わない。
 だがしかし、事件の本質からあまりにも乖離した感情レベルでの、しかもこれほどまでに徹底したいじめを貫くマスコミの姿勢を一体どんなふうに理解したらいいのだろうか。

 ホリエモンは事実関係は認めながらも「不正なことはしていない」と主張していると伝えられている。だが、どのマスコミもその言葉を検証するどころか頭から信じようとはしない。言い訳そのものが問答無用の嘘であり検討に値すらしない虚偽なのである。それは検察の捜索・逮捕といった行動を全面的に信頼しているからなのか。そうでないことはこれまでのマスコミの権力に対する無批判な嫌悪報道ぶりなどから見て明らかである。

 しかも自らの行う報道だけでは心もとないのか、いわゆる評論家であるとか芸能人などを引っ張り出してはホリエモン叩きを加速する。
 もちろんテレビ局としてはホリエモンに与するような意見の持ち主など、そもそも局の方針として招聘しないのだとも思うけれど、世の中こぞってホリエモン叩き一色になるなんてのは、どこか戦時の言論統制みたいな末恐ろしさすら感じてしまう。いやいや、戦時中なら直接にしろ間接にしろ、自由な意見を強制的に封鎖された中での言論統制だったぶんだけまだ隠されている良心が存在するかも知れないという救いがある。今の時代は誰もが無批判に流される金太郎飴になっているから一層怖いのである。

 だからと言って私は、こうしたライブドア事件のすべてを是認すべきだと言っているのではない。ホリエモン等の行動にはどこか驕りなり行き過ぎがあったとも思う。
 だからと言って、「我こそは正義である」、「その罪に鉄槌を下すのは我が方にある」とばかりに、相手の反論を認めようともせず傍若無人に振舞うマスコミの独りよがりは、ホリエモンの姿勢よりも鼻持ちならないのである。

 ホリエモン等の所業を今でこそマネーゲームだの錬金術だのと、マスコミも識者もこぞって批判しているが、その黄金色に目がくらみ、「旧秩序への挑戦者」などと持ち上げてきたのはマスコミそのものではなかったのか。ライブドアは虚業かも知れないけれど、マスコミの姿勢もまた自らが虚業であることを映し出している。
 起きたこと、発覚したことを後から批判することはたやすい。企業の倫理だの経営者の在り方などを唱える批判の声が、道理に叶いもっともらしく聞こえれば聞こえるほど、識者などのしたり顔の発言はマスコミの虚業さを一層糊塗している。




                        2006.1.28    佐々木利夫


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