秋祭りが日本のあちこちで賑わう季節になった。祭りは日本中に存在している。それは観光客を呼び込めるほど大きなものから、小さな部落の身内だけのものまで様々だろうが、数え切れないほど多様だと言ってもいいくらいだろう。
 私がそうした祭りに触れる機会はテレビで見る場合が多い。もちろんテレビで紹介されるほどの祭りだから一見奇妙に見えるスタイルや演出にもそれぞれに伝統なり由緒があって興味深いものがある。

 けっこう旅好きで日本中を駆け巡ったと自負してはいるのだが、その割には旅先の祭りにそれほど縁がない。まあ気ままな旅とは言っても、サラリーマンとしての勤務の傍らを利用しての旅行だから、勢い連休であるとか仕事が比較的暇なときの有給休暇を利用する旅になってしまうことが多い。従ってあらかじめ季節や日時の決まっている祭りに合わせた旅行計画など、そもそも難しいのが原因でもあろうか。

 その点北海道内については、札幌の観光協会が年に一回発行する道内各地のイベントを掲載した情報誌などに祭りも満載されている。だから、例えば土曜日曜や祝日に車を利用して日帰りで訪ねるとか、転勤で北海道各地を転々とする身分でもあったから、そうした機会を利用するなども多かった。

 だがその多くが本州などで催される祭りとは違い、単なる商工祭りであることが多かった。神輿や稚児行列などはそれなりあるものの、それ以外は花火大会やカラオケ大会であるとか地元産品の直売店、焼肉やおでんやジュース・ビールなどの露天が並ぶだけのものが多いのである。

 だから一度訪ねただけで、「ああ、この町の祭りはこんなものか」と興味をなくしてしまうことが多く、そうした祭りが訪ねる先あちこちでパターン化されたように続いていくと、新しい町の新しい祭りであってもそこへ行こうと思う気持ちがどことなく薄れてくることにもなってくる。

 そんな中で札幌からはけっこう遠いにも関わらず、同じ祭りを二度も訪ねたことがある。函館に近い江差という町の「姥神(うばがみ)神社祭り」と呼ばれる祭りである。

 まずこの祭りは三日連続で開催されるのだが、その開催日はその年の曜日などにかかわらず、始めから決まっているのである。商工祭りなら観光客の参加や主催者側の参加のしやすさなどを狙って、一番盛り上がる日曜日や祝日を中心に決めるのが普通だろうけれど、この祭りだけは8月の8日、9日、10日が決して動くことはないのである。

 祭りの形態からして江差特有のものでないことは明らかである。いくつかの町内会が独自の山車(やま)を持ち、それを曳きながらの祭りは、京都や高山などの屋台行列によく似ているからそうした系譜を引くものなのだろう。一説には京都の祇園祭の流れを汲むとも言われている。

 そうした意味ではこの江差の祭りのオリジナルがそれほど際立っているとは言えないかも知れない。だがそれにしても、一基一千万円を超えるとも言われている山車の改築や維持管理を町内会だけで賄っていくのは大変だと思うのだが、それが伝統として続いていること自体に町の人の心意気が伝わってくるし、祭りに対する人々の気持ちが、北海道の他の町の祭りとはまるで違うことに気づくのである。

 例えば私の事務所のある琴似地区も、近くに琴似神社があって年に二回ほど例大祭が催される。神社からJR琴似駅付近までの歩道には露天がひしめき、時に歩くに任せないほどの混雑である。
 ただ、賑わっているのは露天だけではない。この歩道に面している商店のほとんどが自店の商品を売るのに必死であり、界隈の飲食店までが夕闇が近づくと早めに出勤したホステスを路上に出して客引きに余念がない。
 つまり、祭りは祭りのためにあるのではなく、売上を増やすための手段になっていると言うことである。

 ところが姥神神社の祭りは違ったのである。ところでこの町江差は知る人ぞ知る全国的に著名な民謡「江差追分」発祥の地である。町の繁華街には佐渡両津のおけさ会館や越中八尾の観光会館ならぬ「追分会館」があって、有料ではあるが年中素晴らしい喉を聞かせてくれる。
 その追分会館が祭りの期間中閉館されるのである。祭りと江差追分とはまるで無関係である。祭り見物に来た多くの人の中には、名だたる江差追分を聞きたいと思う人も数多くいることだろう。

 にもかかわらず追分会館は閉まったままなのである。どうしてか。それは、開館すれば出演者や裏方など必要なスタッフが祭りに参加できなくなるからである。この祭りは自分たちのものである。己が参加しなくてなんの祭りだと、この町の人たちは心底思っているのである。
 だから、露天や外部資本が入っているであろうスーパーなどはとも角、ほとんどの店が閉めてしまうのである。売上げよりも祭りなのである。

 神輿か山車の曳き手を接待するのだろうか、旧家らしい重みのある家の玄関は開け放たれていて幔幕がかけられており、提灯が灯っている。
 夕闇の迫った飲食店の入り口ではママやホステスらしい数人が、店の外の路上に小さなテーブルを出しその上に日本酒やビールを並べている。なじみの客や曳き手へのサービスが主な目的なのだろうが、一見の観光客にもにっこりと紙コップを差し出してくれる。その場で酔うほどに飲めるわけではないけれど、小さなコップ一杯の酒を何軒かでご馳走になる。

 江差は北海道の南、本州と接続する函館から近く、近くに松前を控えている道南の小さな町である。札幌から日本海沿いに約5時間、北海道の歴史には色々あるだろうけれど、この江差もニシンで栄えた勇壮な町である。

 ニシンは別名「春告魚」とも呼ばれている。春先には群来(くき)と呼ばれ雄の精子で海岸が白く濁るほど産卵のために北海道の西海岸へとニシンは押し寄せてきた。この後ニシンは小樽方面へと移動し更に日本海を北上して留萌沖まで移っていくのであるが、昭和30年代に入ってからぱったりとニシンは北海道からその姿を消した。
 だが、「江差の春は江戸にもない」と言われたほどにも、最盛期のこの町の賑わいは活気に満ちていた。そしてその名残りの姥神神社であり、祭りであり人々の心意気である。

 江差は海岸に張り付いた坂道の町である。豪華で細かな細工の施された大きな山車(やま)の数は全部で13。急な斜面を人の力で引き回していく。このことは例えば祇園祭や博多の山矛巡航とそれほど違うものではない。
 だが最終日夜の神社に戻った神輿の宿入れは独特のものである。タイマツに火をつけた男8人が向かい合って並び、全部の山車がたむろする鳥居下から拝殿の階段までの参道を火で掃き清めるように一気に駆け上る。

 それに続いて神輿も白衣の若者にかつがれて一気に駆け上るのである。一度では拝殿に入らず何度も出し入れを繰り返す。神輿は一つではない。その出し入れの回数ややり方がどうなっているのか分からないけれど、飛び散る火の粉にこの例大祭はクライマックスを迎えるのである。

 神輿が無事神殿に納まると、各山車は再び動き出して町の中心街に勢ぞろいとなる。二階建て、三階建て、そして20人も30人もの囃し手を乗せたこの山車は最高潮に賑わい、その時が過ぎるとやがてそれぞれの町内会へと戻る「帰り山車」となる。囃子の調子が変り急にゆっくりと静かになる。賑やかだけれど少し淋しげな祭りの終わりである。
 山車が終わっても余韻は続く。港からは鴎島(かもめじま)が目の前である。海岸の小道を瓶子岩(へいしいわ)に沿って小高い丘へと続いている。その海岸通りは祭りの余韻を残した若いカップルで朝まで賑わうのである。

 この祭りを見に来た人は、来年のこの日の宿を予約して帰ると言う。だからこの祭り見物を宿に泊まってゆっくり味わうなんぞはとても難しい。かく言う私もはなから旅館での宿泊などあてにはしていない。港の前の広場には十分駐車することができる。車に卓上ガスコンロと毛布を積み、スーパーから仕入れた焼肉やインスタントラーメンなどで腹を満たし、そのまま車内で朝を迎えるという野宿スタイルである。気が向けば車を置いたまま奥尻島へ日帰りフェリーの旅をするのも乙なものである。

 三日がかりの祭りが終わった。車での野宿も少し疲れてきた。近くの水道で顔を洗い、朝にはあんまりそぐわないかも知れないが冷麦を作っての朝飯である。大沼公園や鹿部の間欠泉でも見ながら帰ろうか。
 二年後、男はまた同じ祭り見物を同じような野宿パターンで繰り返したのである。もう10年以上にもなる懐かしいひとり旅の思い出である。



                             2006.10.29    佐々木利夫


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江差の祭り