80万円のメロン
  
 物の価格と言うのは売るほうがどんな値段をつけるにしろ、それを買う人がいて始めて決まることだから、誰が何をいくらで売ろうと、それを誰がいくらで買おうと私の知ったことではない。

 私が東京で研修を受けていた頃の経済学は「近代経済学」、いわゆる略称「キンケイ」全盛の時代であった。需要や供給、購入者の意思や収入など、多くの要素を記号化し、数式化して捕らえようとする学問であり、主として微積分を使って新しい数式を展開しようとするものだった。

 私自身もわりと数学が好きなほうで、「微かに分かる、分かった積もりになる」などと唱えながら、どこかで読んだ知識の受け売りそのままに微分・積分の入り口をかじっていたものだから、教科書の数式の展開が自力で解けたような場合などは、その数式の意味するところ以上に解けたという事実に有頂天になってはしゃいでいた記憶がある。

 ここでその微積分の知識を披露するつもりはない。ただ、誰でも分かっている「価格は需要と供給で決まる」という単純な経済学の伝統的哲学の知識を単に見せびらかしたかっただけである。

 さて、毎年繰り返されているようだが、今年も道内メロン(今ではすっかり全国的にも有名になった『夕張メロン』である。このメロンは九州の店頭にも並んでおり、全国的には生産量を上回る出回りになっているとの噂が高い)の初出荷の時期となり、つい数日前に初せりの模様がテレビで報道された。

 なんとあっという間に二玉で80万円の値がついて落札されたそうである。売りたい人がいて、買いたい人がいる、ご祝儀相場だそうだから少しはお遊びの気持ちも入っているだろう。
 だから、自分で食おうがはたまた贈答用に使おうが、物好きで金持ちの客に更に高値で売ってしまおうがこちらの知ったことではない。

 だがこの値段、あきれるというのを通り越して「あれは間違いだ」、「あってはいけない値段だ」、「こんな値段のつく世の中間違っとる」、そんな気持ちをどうしてもぬぐえない金額だと私には思えてならなかった。

 たかだかメロンの話である。食わなきゃ死んじまうようなそんな切羽詰った場面ではない。ゴッホの絵が何億円だろうと億ションがぞろぞろ売れようと、それが当事者の問題だということは分かりすぎるほど分かっている。当事者による価格決定、それが経済社会の合理性というものであり、だからこそ世の中円滑に動いていくのだと言うことだってきちんと理解しているつもりである。

 それでもメロン80万円と言う世の中はどこか変である。当事者同士が良ければいいではないかという理屈はそれはそれで間違いではないのだろうけれど、どこかで普通の人間が普通に許容できる範囲と言うものが世の中にはあるのではないかと思ってしまうのである。

 世界一の金持ちが自宅に世界一のコックを雇ってグルメな食事をすることにも、超豪華なヨットで世界一周のクルージングすることにもそんなに違和感はないのだが、メロン80万円はやっぱり変だと思う。

 それは私自身の中に「私には絶対不可能」と「無理すれば可能」という二つの命題があって、不可能なものは私とは無関係だから許容できるのに対し、可能なもののほうはその無理の程度によって差別するという意識があるのかも知れない。
 だからそうした意味での許容はいわゆる本来の許容なのではなくて無関係・無関心とでも言い換えるべきものなのかも知れない。それが私だけの意識である証拠は、だれもメロン80万円を物好きだとは言っても変だと声に出す者はいないことからも少し分かる。

 だから、こんな考えを持つことは私だけの心の狭隘さを示すものに他ならないのかも知れないと思わないでもないのだが、それでもこんなケースはメロンだけではない。オークションで腕時計に600万円の値段がつき、30万円を超えるハンドバッグが売れているという。

 最近見たテレビである。今の人間は野菜を摂るのが不足しているという。その話は分かる。だから、だからである。ケーキの上に野菜を載せるというのである。バーでカクテルが出される。それはいい。そのカクテルの上にバーナーであぶったトマトの切片が浮いているのである。

 ケーキの味や彩り、カクテルの味わいやデザインなどのために野菜を使うというのなら分かる。でも野菜の摂取が不足しているからそれを補うために作りましたと、いかにもしたり顔で解説している作り手の意識は「全く」、「絶対」に変である。

 消費とは何なのか、物の価格とは何なのか。価格=信頼の方程式が破壊された。「高いものはいいものだ」という神話が崩壊した。

 「そのメロン、お前が食うんじゃないんだからいくら高くたっていいじゃないか」、「人の好き好きなんだから、焼トマトのカクテルを野菜不足解消のために飲む奴がいたっていいじゃないか」の声が聞こえつつ、「そんな馬鹿な」と私はどうしても思ってしまうのである。

 日本中が号令一下、右向け右に従うような社会になることもそれなり恐ろしい思いがするけれど、一人ひとりがバラバラの価値観を持ち、そのバラバラさ加減を多様であるとか個性などと呼んで合理化しようとする社会もまたどこか変なような気がしてならない。

 バラバラな価値観は今や、家庭、学校、会社、地域社会などなど、あらゆる場面に浸透し始めてきている。若者は「誰に迷惑かけるのでもないから何をやろうと私の勝手だ」とうそぶき、老人もまた寄る辺なき明日に途方に暮れている。

 十数年前にもなるだろうか、テレビのバラエティー番組で流行した「カラスの勝手でしょ」のイメージが、他人への無関心という上着をまとって、静かに、そして確実に私たちの身近に迫りつつある。




                     2006.05.30    佐々木利夫



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