魅力ある日本
  
 5月17日の朝日新聞の「世界の窓」に掲載された早稲田大学教授の論説である。彼の意見によれば日中関係が悪化している現状を改善するためには「魅力ある日本」を創る必要があり、そのためには「日本の良さの再確認」、「安心、安全、充実した社会システムの構築」が課題であり、「人間性の育成」が必要なのだそうである。

 その背景には現代人の極端な拝金主義、欲望むき出しのメル友ネット、老人に対する思いやりのなさなどがあり、そうした現象からの脱却には法と秩序の順守、むき出しの成果主義・競争社会への反省、人間の品格の醸成などが必要なのだという。

 筆者の意見にはその他にも「魅力ある地域社会」、「豊かな心」、「人間性」、「人を愛する心」、「相手国への配慮」、「触れ合いコミュニケーション」などなど、際限なく理想的な環境を述べたてる言葉が続き、「魅力ある日本の創造」こそが戦略的にも必要だと説く。

 言ってる意味は分かる。そうした環境の実現が日本のみならず世界を平和へと導くであろうことも分からないではない。だが考えてみると、どれ一つとってもどこか無いものネダリ、決して届かない空想世界への幻想であるような気がしてならないのである。

 そんな世界が実現するのだと筆者は本当に信じているのだろうか。かたや主題となっている日中関係の改善は今ここでの現実的な問題である。50年先、100年先を考えてのことではない。そうした現実的な事案の解決のために見果てぬ夢を見ることに何の意味があるのだろうか。

 単純な「戦争のない世界」の実現だって、人ははるか大昔から願っていたにもかかわらず今に至るも願いだけのままに止まっているのではないのか。もっと単純に「泥棒のいない社会」だって、「盗むなかれ」が人間社会共通のテーマであるにもかかわらず、私には決して実現することのない遠い仮想世界の出来事にしか思えないのである。

 私は筆者の言う様々を否定しているのでも否定したいと思っているのでもない。「豊かな心」、「みんな仲良く」というテーマだって、結局は隣人との付き合いから世界平和にまでつながる考えだとは思う。

 こんなところに持ち出すのは唐突だとは思うけれど、少し前に見たSF映画は宇宙人来襲に世界の人類が共同して対処するというシナリオだった。人類の危機に立ち向かう感動の物語だが、そうした世界を守るという共通意識は、結局地球を守るというような人類破滅と言うぎりぎりの設定がないと成り立たないのではないかと最近のあちこちで展開している国際紛争やテロ、環境問題などなどあらゆる面に感じてしまう。

 だから世界平和という目的に向かって人々が進んでいくことに異論を唱えるつもりはないのだけれど゜、決して実現しないであろう空想とも思える考え方を、例えば現実の日中問題の解決のための手段として提示することにはどうしても違和感が残ってしまうのである。

 筆者の考えが実現するならば日中問題はおろか世界平和も現実のものとして人々の手のひらに入ることだろう。でもどう考えてもその実現が見えてこないのである。

 どうしてそんなことが言えるのか。それは、我が身がそうだからである。とりあえず平々凡々ながら社会的にも家庭的にもそこそこ承認された生活を送っているこの身ではあるが、「本当にそうか」と僅かにしろ自問してみれば、その身の内に潜むあからさまなエゴに愕然とする。

 問われるならば世界の平和だって無条件に承認しよう。何なら命は地球より重いことにもろ手を挙げて賛成することだってできる。正義、美徳、教養、信頼、慈善・・・・・・・、延々と続けることのできる優しい言葉の羅列に私はいくらでもにっこりと微笑むことができる。

 だが心の裡にあるのは決してそんな優しさばかりではない。それはもしかすると永遠に蓋をしたままで知られずに終わってしまうものなのかも知れないけれど、どんな優しさも「自分のエゴ」との対立の中からしか表に出てこないのだということが、少なくとも私の問題として分かるのである。

 それは「他人だってそうだ」というのよりはもっと的確な形で、我が身の心の底の底のほうに澱のように潜んでいることを私自身として分かっているからである。

 それを邪と呼ぼうが悪と呼ぼうが、はたまたもっと単純に信号無視であるとか100円拾ってねこばばするとか、そうした日常に潜むありきたりの不正と呼ぶにしても、それらの澱は遠くにあるかに見える殺人のような思いにまで切れ目なくつながつていることが分かるのである。

 そうした身の裡に潜むエゴを誰が知ろうか。エゴを取り繕うことで成立する人間関係ではあるけれど、そのことは結局人はエゴから抜けられないということでもあろう。エゴなくして人は人になりきれないとも思うけれど、そのエゴが人を傷つけてきたこともまた避けられない事実である。

 このコラムが掲載されたと同じ日の新聞に、100円で入場できる東京の寄席が紹介され、その中で演じられる落語について読者はこんなふうに書いていた。

 「格差社会にめげず、理不尽さを庶民の知恵と才覚で笑い飛ばすことで落語は社会を浄化してきたと思う」

 落語が社会を浄化してきたかどうかはその人その人の考えだろうが、そうした無関係とも思えるやすらぎの中に人は理不尽であることを許容(?)してきたのかも知れないと、ふと感じてしまった。
 そして許容というのは人が己の人生を生きていくための最大の知恵だったのかも知れないと、なんだか無理やり心の裡を覗かせられた後味の悪さをその中に押し込めようとしている自分をそこに見せつけられた今日の新聞だった。




                     2006.05.25    佐々木利夫



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