OB会の平和
  
 定年になってこうしてひとりの事務所でわがまま一杯に過ごしていると、あたかも気ままからの復讐でもあるかのようにかつての職場にいたときには日常的に存在していた若い人たちと話をする機会がどんどん少なくなってくる。

 OB会も折々のポストであるとか経験してきた仕事の系列などを中心とするいくつかのグループが存在しているし、退職して8年にもなるのだからそのぶんだけ後輩も増えてきていることになる訳だが、それでもまだまだ数として先輩のほうがずっと多い。
 そうした事実は裏を返せば仕事を持っている先輩がそれだけ多い、もっと歯に衣着せずに言うならばけっこう長生きしている先輩が多いということであり、仕事が元気につながっていると言っていいのかも知れない。そうした意味ではご同慶のいたりである。

 ところで参加者のほとんどは税理士であり、互いに退職した者同士なのだから言わば御同業として対等の立場にいることになるはずである。ところがこれがなかなかどうしてそう簡単なものではない。どうしてもかつての現職当時の職階を意識せざるを得ない場面が多くなるのである。

 まあ、10人単位くらいのテーブルがいくつか設けられているのであるが、そのテーブルには例えば「松、竹、梅・・・・」にしろ「A、B、C・・・」しろテーブルを示す札がついている。そして当然に筆頭席には大先輩が座り、順次繰り下がって新米会員は末席と言うことになっているのである。
 時にくじ引きなどで混成チームを作ろうという試みをすることもあるのだが、筆頭の三テーブルくらいはどうしても会長を中心とする古参会員用になるし、いつの間にか旧態依然たる席順パターンに戻ってしまうことが多い。

 つまり大先輩と言うことはそれだけ我々にとっては現職当時からの大先輩であり、昔の課長は今も課長であり、頭の上がらなかった部長には今も無意識に頭が上がらないという構図が尻尾を引きずったまま生き残っているということである。

 もっとも、最古参の会員の隣に突然に新米が座らせられても、萎縮するばかりでまるで話が合わないことになるし、それよりは退職した年次の近いグループを集めたパターンのほうがスムーズな会話の原点にもなるという実利的な現実があり、そのほうが気がねなくうまい酒を飲めるというものである。

 江戸時代の狂歌の中に茶席に合わぬ話題を並べたこんな歌があったことを知ったのはつい最近のことである。

 「わが仏、隣の宝、婿しゅうと、天下の軍、人の善悪」
                      (06.02.08読売新聞『編集手帳』から孫引き)


 庶民にとって今の時代に茶席での付き合いなどほとんどなくなってしまっているから、我々凡人に当てはめるなら茶席は「飲み会」と言い換えたほうがいいのかも知れない。

 つまりこの狂歌は、宗教や貧富、家庭の事情であるとか政治、人物評などは仲間内の話題にはふさわしくないと言っているのであるが、改めてこれを我が身に当てはめてみると実に忸怩たる思いが伝わってくる。

 時には仕事でぶつかって困っていることを話題にするケースがないではないし、そうしたことを話題にすること自体、逆に言えばそうした会話の中で迷っている事柄に何かの光でも指さないかとの期待もあるからである。
 だが、そこはそれ先輩後輩と言う身分関係の下で、しかも酒の席での話題としては「そんなことも知らんのか」、とか「勉強不足だね」などと思われたくないという変な自尊心と言うか意地みたいな職業意識もあって、現実にはこうした話はあんまり話題にすることは少ないし、たとえ話題にしてみてもなかなか発展していかないのである。

 その原因の主たるものは、こうした話題が問題になること自体一筋縄でいかない内容を持っているということであり、背景にある事実関係を詳しく説明するだけの時間も気持ちも余裕がないことにある。だからだいたいがこんな席での話題そのものが、互いに真剣さを欠いており、聞くほうも答える方も会話そのものは流れていくもののどちらかと言えば上の空である。

 そして結局はとりあえず互いに利害の少ないこの狂歌のような話題に移ってしまう。つまり、こうした話題と言うのは互いに無責任で一過性だということである。
 話す方にはある程度の真剣さがあるのだろうけれど、これに対する聞くほうの態度と言うのは極めて無責任である。

 どうしてか。まず第一に日本人は「和を以って貴とし」を旨としているから、こうした仲間同士の会話では決して対立する意見を述べることはないことがあげられる。
 こうした傾向は、例えばテレビの座談会であるとかトーク番組、賛成にしろ反対にしろ立場のはっきりしたほうの主催するパネルディスカッションなどいたるところに見ることができる。

 そして同じようなものなのにこれまた意地になって対立するのが政治討論会と称する議論である。なんでもかんでもああまで正反対の意見を聞く耳持たずの姿勢でがなり立てると言うのは、逆に言えば自己主張がなんにもないこととどこが違うのだろうかとさえ思ってしまう。

 ましてや参加しているのはOB会であり、対話の相手は元上司である。「ご無理ごもっとも」として「柳に風」と受け流すのが最上の処世術である。相手の話が時に酒の味を不味くすることがあるかも知れないけれど、そこはそれ今日のめぐり合わせである。数分聞いた振りをしてから、「もっと聞いていたいんだが・・・」という風情を残しつつトイレに立とうが隣の席にいる親しい仲間のところへ逃避しようが、それはそれでこちらの処世術である。

 ただこうした対立を避けるという日本人の姿勢は、どうしても自己主張からの逃避になってしまい、そうした日常そのものが逆に日本人の今を象徴しているような気がしてならない。
 つまり、物事をすべてを「なあなあ」であるとか、「まあまあ」などで済ましてしまうことになってしまい、どうでもいいような酔っ払いの会話ならそれはそれでいいのかも知れないが、自分の立場をきちんと主張しなければならないテーマがからんでいるときにまで対立を嫌う姿勢が伝染してしまっている。

 たかがOB会である。そんな場所での付和雷同を日本の将来に結びつける必然もないとは思うのだが、安定と言う平和もどきの匂いの中に争いであるとか憎しみ、更には夢だとか希望なども含めてどっぶりと漬けこんでいる今の時代に重なってくるのである。
 そして世の中がこぞってテレビのお笑い番組じみた世界を目指しているのではないかと思えてきて、バーチャルな平和の中で一人芝居を演じさせられているのではないのかとふと気になるのである。




                     2006.05.20    佐々木利夫



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