飲兵衛仲間の一人に、カラオケ「ノラ」を持ち歌の一つにしている男がいる。ついこの前、久し振りにこの歌をスナックで聞きながらカウンター越しにママと交わした話である。

 「ノラ」は野良猫、野良犬の「のら」の意味であろう。
 「雨に濡れたノラ」、「帰り着いたアンタ」、「泣き落としには懲りていたのに」、「愛はひとり芝居」などなど、いわゆる演歌らしい歌詞が纏綿と続く門倉有希が歌う数年前にけっこう流行った曲である。少し投げやりで、すがりつくような女の悲しさが、どこか場末のスナックの雰囲気や空回りしながらもそれなり頑張っている自分の姿にどことなく重なるのだろうか、女性客よりは男性客に人気のあるカラオケ曲である。

 ママと話しながらこの「ノラ」を引き合いに出しながら男運のない女の話になった。世の中男と女しかいないのだし、人口の半分が男(女)には違いないだろうけれど、そんなこととは無関係に男は女にもてたいと思い、女もまた男にもてたいと望む。

 こうしてスナックに飲みに来ることだって、純粋に酒が飲みたいのかと問われれば、それが望みなら酒屋から焼酎でも買って家で好きなだけ飲めばいいなどとあっさりと反論されてしまうのが落ちだろう。

 どこまでそしてどんな下心を持つのかどうかは様々だろうし、中にはカラオケを歌いたい、旨い手料理に惹かれてだとか、ちょっと洒落た会話を楽しみたいなどと言い訳しながら通う場合もないとはいえないだろう。
 ただ、新宿歌舞伎町、札幌すすきのなどなど、日本中どころか世界にある飲食店街の繁盛は、銀座の高級バーから駅裏場末の赤チョウチンにいたるまで、夜の歓楽街はホストクラブまで含めるならまさに男と女の駆け引きの渦巻く巷でもあろう。

 そうした中でのこの「ノラ」の生き方である。そんなに女について語るほどの知識も経験もないこの身だから、結局はテレビや雑誌や小説や仲間との雑談などの整理されていない雑多な知識の寄せ集めにならざるを得ないのだが、これまで一つのパターンとして「男運のない女」のイメージを自分なりに抱いていた。

 それは、ノラのように裏切られても捨てられられても甲斐性のない男にしがみついていく女の姿である。惚れっぽくてそれにもかかわらずいつも捨てられてしまう女、貢ぐだけ貢がされ、時には暴力すら振われながらも生活力のない男に、それでもすがりついていく女の姿を、そこまで徹底したひたすらさではなくても、一つのパターンとしてそういう女を「男運のない女」と感じていたし、そのことはママも同じように意識していたようである。

 こんな話になったのは、ちょうどその日が女の子のひとりが結婚でこの店を辞めることになっていて、その出勤最後の日に当たっていたからなのかも知れない。
 つまりは結婚すると言う「男運のいい女」に対するお祝いと多少のやっかみが入っていたと言われればそれまでの話である。

 ただ、そんな話の途中で、「ノラ」のような女が本当に「男運のない女」なのか、ふと疑問に思ったのである。男運のいい女なのかそれとも悪い女なのかは、当然のことながら第三者が決めることではない。それを決めるのはその女自身の心意気なのではないのかと、ふと思ったのである。

 しがみつき、すがりつき、どうしょうもない男にそれでも引きずられていく女の姿は、第三者としてはみじめで救いがないように思える。恐らくそうした事実を知った者なら誰もが「そんな男とは早く別れろ」、「新しい恋を見つけたほうがいい」と忠告することだろう。
 でも、私はもう一つ別のパターンの男運の悪さという状態があるのではないかと思いついたのである。

 それは「男に縁のない女」である。人口の半分は男だと言ったところで、いわゆる「男と女」として女の側から見る男とは、女の生活圏に存在する「好きになる」もしくは「好きになれる」対象である。
 父親も兄弟も道や電車ですれ違う多くの人々も、テレビの画像の中の人たちも、まだ見ぬアフリカの奥地で狩りをする男たちだって異性としての男であるには違いないだろうけれど、1人の女として感じる「男と女」としての男ではない。

 そうした「男と女」の関係を昔は「色」と名づけたけれど、現代はなんと呼ぶのだろうか。恋愛と呼ぶか不倫と呼ぶか、はたまた浮気と呼ぶかはそれぞれだろうけれど、一抹の味気なさは隠しようがない。ともあれ、そうしたチャンスの訪れない女、恋を知らない女がいるとしたら、そうした女をこそ「男運のない女」と呼んでもいいのではないだろうか。

 最近のテレビを見て違和感を感じたのだが、男と女が恋愛感情を持って交際することを「付き合う」と言うらしい。付き合うという言葉にいつの間にそうした感情を込めるようになったのか、少なくとも私の頭ではまだ理解しがたいままだけれど、むしろそうした「付き合う」機会のない女を「男運のない女」と呼んでもいいのではないだろうかと思ったのである。

 ノラは報われない愛、裏切られた愛に泣く女かも知れないけれど、少なくとも1人の男を愛しぬいた女である。そうした女を「男運がない」などと呼んではいけないのではないだろうか。彼女のような例は多い。そうした女はひたすらに1人の男を愛したのである。裏切られても逃げられても、時に殴られてもその男を愛しぬいたのである。独断的、身勝手なのかも知れないけれど、「死ぬほど愛した」のである。どうしてその愛を男運が悪いなどと呼べようか・・・。

 ノラを歌う仲間のレパートリーには同じような女の愛を歌った「天城越え」(石川さゆり)がある。「嘘でも抱かれりゃ暖かい・・・」。このフレーズの中にこの歌のすべてがあると私は感じている。

 場末のスナックでの他愛ないママとの会話である。仲間が歌い終わって、いつもどおりに拍手して、すぐに別の話に移る、そんなどうでもいい会話である。

 ・・・・・・おや、そこのお客さん、何か言いたそうな顔つきですね。まさかに「ところで、お前さんはどうなんだ」なんて、そんなやぼなことを聞こうとしているのではないでしょうね。
 まあ、こんな酔客のひとり言など無視して、無視して・・・・・。

 ママ・・・、ママ・・・・・、次のカラオケ、この人だよ。マイク、マイク・・・・・・・・。



                        2006.2.3    佐々木利夫


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男運の悪い女・・・?