私だって65歳を超え既に老人の仲間入りをしているのだから、こんな風に言ってしまうと目くそが鼻くそを笑う類だとか、年寄りのへそ曲がりが始まったなどと言われてしまうかも知れないが、つい先日の新聞への寄稿記事を読んでいて、いずれ私もそんな風に思うようになるのかと少し悲しくなってきている。

 それは評論家として著名な吉本隆明氏(81歳)が寄稿した「現代の『老い』」と題する記事である(朝日新聞9月19日朝刊)。

 彼の主張は「老人が直面する問題はやっぱり老人になるまでわからなかった。いい年をしていろいろな目にあって、ようやくそれが見えてきた」との判断の下、「医者も、看護師も、介護士も、『老人とは何か』、『どういう存在なのか』ということが本当にはわかっていないという事実だ」との考えを展開する。

 つまり「『老人』とは一口に言っても、何十年もそれぞれの職業ごとに体を使って千差万別の人生を生きてきたのだから、治療や介護、リハビリテーションの仕方は一人ひとり違わなければおかしいだろう。ところが病院ではそうした配慮は一切なく、『年齢』というたった一つの基準で患者をくくってしまう。そしてその一つだけの基準に基づいて治療や介護やリハビリテーションが行われていく」と言いたいのである。

 そしてそうした現実に、「・・・その画一性が一人ひとりの患者に及ぼす、心身への絶望的なまでの影響というのは計りしれない。医療や治療の専門家が患者の個人差を本気になって考えないというのは致命的ではないか」とまで断じている。

 私はこの意見を最初は、例えば無愛想な医者が多いとか、相談しても親身になってくれない看護師が多いなどといったことに対する、もっと優しくとか親切にという患者に接する人たちへの気持ちの問題を言いたいのかと思った。

 しかし、「医療をめぐっては、70歳以上の高齢者の窓口負担が引き上げられることを始めとして様々な問題あるが、僕はこの問題こそが医療や介護問題の核心であり、国家や介護治療の専門家が最も考えなければいけないと考えている。そしていまの病院の管理態勢を『何が何でも患者本位』に切り替えていかなければならない」としていることは、老人に携わる人々の優しさをどうするかと言う問題ではなく、具体的な治療・介護そのものの質への問題提起だと言うことができよう。

 私はそうした筆者の気持ちが分からないというのではない。自分を含めた一人ひとりの老人にふさわしい治療や介護を求めるという心境は十分に理解できる。

 ただ、老人の多くはやがて好むと好まざるとに関わらず患者にならざるを得ないだろう。そうした時、一人ひとりに適合した「何が何でも患者本位」の対応を、国家や介護治療の専門家に求めるというのは、結局ないものねだりを強要しているのではないのかという気がしてならないのである。

 そんなことは不可能だと思うのである。仮に私が千差万別の中の一人の患者だとして私本意に叶う人は果たして見つかるのか。私のために日本中から人を集めたとするなら場合によっては見つかるかも知れない。それでも「何が何でも私本位」を求めるなら、その実現はかなり難しいのではないかと思う。

 まず誰かに付き切りになって世話をしてもらいたいと思ったとする。単なる介護的な世話ではない。何たって私本意なのだから、テレビのスイッチを入れることから番組の選択、食べ物の好み、話し相手、行きたいと思う好きな場所へ昼だろうが夜だろうが、眠れない夜は好きな本を読んでもらうなどなど・・・・・、考え出したら私の欲望には限りがない。

 こんな風に言ってしまうと、筆者の言う「何が何でも患者本位」の言葉を、私が勝手に「患者の好き勝手、気まま、わがまま」と言うようにことさらに捻じ曲げて解釈していると思われてしまうかも知れない。
 だが筆者は自身の意見を「『老人のわがままだ』と言われてしまえばその通りかもしれない。」と了解しつつ、画一性は患者へ絶望的なまでの影響を及ぼすと論じ、千差万別の老人に対して一人ひとり違う対応が必要だとしているのである。
 つまり、彼の言う「何が何でも患者本位」は言葉通りの意味であり、これに反することは「絶望」だとまで言い切っているのである。

 さて、それでは老人で患者であり千差万別の中の一人である私に、一体何人が必要だろうか。一日24時間を一人で対応するのは無理だから仮に一人8時間勤務とするなら、少なくとも3人となる。いやいや頭数だけ揃ったとしても意味はない。私を理解し私の思うがままに尽くしてくれる人がそれだけいなければならない。それでも8時間勤務3人では無理である。私本位に適合する人数を集められたとしても、その人たちにも生活があるだろう。休日も有給休暇も必要だし、生涯夜間勤務専門というのも無理がある。一人一年間の稼動日数が法律でどの程度に規制されているのかきちんと理解してはいないのだか、ざっと考えても4人から5人は必要になるだろう。それも私だけにである。

 しかもこの人数には治療などの専門的な分野の人たちは含まれていない。恐らくそうした、つまり「何が何でも私本意」に徹底するなら、私に何一つ我慢させる必要のないまでに設備とスタッフを揃えなければならないことになる。

 そうした欲望は、私が死ぬか病院と介護施設の完備した私だけの城が完成するまで止まることを知らずに続いていくことだろう。なぜなら、私に我慢をさせるということそのこと自体が「何が何でも私本意」というセオリーに反するからであり、我慢は「絶望的」「致命的」と等号で結ばれているからである。

 もちろんそうした処遇をしてもらえることに私自身異論はない。一人になりたいと思った時には、相手に向かって「消えろ」と言えばいいのだし、必要になったならば「開けゴマ」と呪文を唱えるだけでいいのだから。

 アラジンの魔法のランプを手に入れた私に恐らく不満はないだろう。仮に不満があったとしても、その不満をランプに頼んで消してもらえばいいだけのことなのだから。

 さて現実は魔法のランプなどどこにもない。そんなことは誰にだって分かる。だが魔法のランプに似たシステムを作ることはできるだろう。ただしそれにはそれに見合うだけの金がかかるということである。
 果たしてそのシステムを維持するための膨大な費用を、一体誰が負担するのだろうか。少なくとも私個人ではまさに絶望的であり、不可能と言ってもいい。またそんなことに付き合ってくれるような親戚も金持ちの友人も残念ながら心当たりがない。

 ではどうする。簡単である。自己負担で不可能ならば、税金でやってもらえばいいのである。国の予算なんぞは何十兆円もあるのだから、個人として考えるなら事実上無限に近く使い放題である。
 やれやれ、これで満足すべき結論が出た。もし予算が余ったらそれをどのように使おうと私の関知するところではない。私以外の人の面倒を見てやるのもいいし、義務教育に使うのだって、ダムを作るのだって、生活保護に回すのだって文句はない。
 かくして私は「何が何でも私本位」の城を持つことができる。めでたし、めでたし・・・・。

 もちろん私にだって筆者がそこまで考えて書いたはずのないだろうことくらいは容易に想像がつく。だが彼のように幅広い知識を持ち多くの著作をものにしている知識人にして、そうしたサービスの要求をそのためのコストとの比較についてなんら触れることなしに無条件に求めることだけを主張していること自体にどうしても割り切れないものを感じてしまうのである。

 その人その人にふさわしい処遇を求める意見は何も老人医療や介護に限るものではない。保育も教育も、健康体操も災害対応も、交通事故や犯罪などの被害者も、なんなら晩飯のおかずから旅行などの興味趣味の分野にいたるまで世の中全部が個別である。言わせて貰えば葬式のやり方にだって死に行く者にはそれなりの望みがあることだろう。
 それを要望と名づけるか欲望と呼ぶか、はたまた個性であるとかわがままと呼ぶかは、結局それを充足させるための手段なりコストを賄うだけの力が国なり国民にあるかどうかにかかっているのではないだろうか。

 世の中、空気とお天道様以外にタダはあり得ない。一見無料に見える駅のエスカレーターやデパートのエレベーターだってコストは企業が負担しており、つまるところ切符や商品の価格に上乗せされてる。市役所などのさまざまな催し物や講習会、ゴミの無料収集だって税金がそのコストを負担しているだけであってタダなのではない。

 冷たい言い方かも知れないが、コストなしにはどんな理想も動くことはない。「予算がない」の一言で多くの要求を抹殺してきた理不尽な事実の存在を知らないではないけれど、求めることだけをごり押ししてそれに伴うコストや人材の養成などの負の部分を考慮しない主張はやっぱり片手落ちである。
 実現不可能な「ないものねだり」は、結局は主張しないのと同じ意味を持つのではないだろうか。

 だから私は、彼ほどの論客にしても、年齢を重ねていくと求めるだけに終始してしまうのか、年をとると言うのはこう言うことなのかと、新聞半ページ以上にもわたって書かれているこの論文を読んで、どこかやり切れなさを感じてしまうのである。

 求めること、依存することにこだわってしまう体質へと、私もやがて変節していくのだろうか。



                            2006.09.22    佐々木利夫


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老いの偏り