スピードを競うオリンピック競技の記録が、人間がストップウォッチの竜頭を押して計測していた時代から電子的な計測に移るにしたがつて、競技者の争いというイメージから少し離れて、「時計の競技」になってきていると言われて久しい。
 現実に採用されるかどうかは分からないけれど、理屈だけをいうなら時計は既に数兆分の一秒まで計測できる能力を持つようになってきているから、オリンピック記録も千分の一秒、万分の一秒単位で表示されるようになるかも知れない。

 さて、今回のトリノ冬季五輪女子スピードスケート500メートルでメダルを逸した岡崎朋美選手の記録は銅メダル選手のそれと比べて100分の5秒差だったと伝えられた。

 「惜しい」、「もう少し」が連発の評価だし、私もそう感じる。が、考えてみると時間差のみを争う競技なのだから、差によって順位が決められのは当たり前のことだし、その大小そのものに何の意味があるのか疑問なしとしない。

 これに関する読売新聞のコラム「編集手帳」でのコメントである(18.02.16)。この100分の5秒を「一円玉25億枚のうちのたった一枚」と評したのである。この分母はオリンピック開催の間隔である4年間を秒に直したものである。つまり4年×365日×24時間×60分×60秒を計算し、これに100分の5秒を一秒に換算した20倍を乗じた数字である。

 3位と4位の僅少さを分かりやすく表現したつもりなのだろうけれど、100分の5秒は100分の5秒である。譬えを選んでそのことに感激したり感心したりするのは変だ。4年と言うオリンピックのサイクルを持ってきたというが、その4年とこの100分の5秒とは何の関係もない。それを許すなら、岡崎選手34歳のこれまでの人生を単位とするならこの25億枚の一円玉は200億枚を優に超えるだろうし、オリンピック開始の時をスタートとするならもっともつと増えていくことだろう。逆に一円玉100枚を一秒と考えるなら、この差は5枚、つまり20枚の中の一枚ということになる。

 岡崎選手が次のオリンピックに向けて果てない努力を続けていくのか、それとも違う道を選ぶのか、それは分からないけれど100分の5秒は生涯ついて回るだろう。そしてその差を埋められるのか埋められないままに過ごしていくのか、どちらにしてもこの差の記憶は長く続くことだろう。それもまた己に課されたさだめでもある。それは決して一円玉一枚でも25億枚でもなく、事実としての100分の5秒である。

 日本人全員が一人一円拠出したら一億円集まるとか、ネズミが米粒を一日何粒か食べるだけで全国で米俵が毎日何百俵も消えてしまうなどの話は、掛け算割り算の答としてはそうなのかも知れないけれど、誰がその一円を集めるのか、どうやって集めるのか、集めるための費用はいくらくらいかかり、それを誰が負担するのかなんて考えたら現実的には荒唐無稽な話であることくらい誰の目にもはっきりする。

 分かり易さを表面に出すことで理解を深めようとする考えの分からないではないが、そうすることが逆にものごとの本質と言うか事実を歪めてしまうこともある。

 無理やり分かりやすくなどする必要はない、ありのままをありのままに理解することのほうがずっと大切なんだとそう思い、そのことは逆にこの身の想像力の欠けている証拠なのかとも思いつつ、帰途の夕空がいつの間にか薄暮に変り、あれほど凛と冴え渡っていたオリオン座がその薄暮の中に輝きを失っていく姿に春を感じている。



                        2006.2.22    佐々木利夫


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100分の5秒