冬季オリンピックがイタリアトリノで開かれている。日本時間2月11日(土)午前4時、現地時間では10日(金)午後8時から入場式が行われ翌日から競技が開始された。始まる前からメダル、メダルの大合唱が続くなど、相変わらずマスコミの身勝手な報道ぶりが目立ったけれど、それがプレッシャーになったのか、まだ五日目が終わっただけだけれど、メダルは一つも獲得できないなど、いまいち日本勢の成績は振わないようである。今日の話はそのことではない。毎日の報道の中でなんだか気になることがいくつかあった。

 @ 出場○回目

 その一つは、選手の個人情報が色々アナウンスされるのだが、その中に「オリンピック出場○回目」という紹介が何だかやたら目立つのである。一人や二人ではない、何人もである。中には5回目というのすらある。

 もちろんオリンピックに出場するということは、その選手が当面世界に通用する実力を持っているということであり、そのことはとりもなおさず日本におけるその種目でのトップグループに位置していることを示している。
 だからその実力が一年や二年で他人に簡単に追い越されることなど少ないであろうことは容易に想像できる。でもオリンピックは4年に一度の開催である。3回出場なら12年、5回なら20年もの期間が存在しているのである。

 このことは少なくともその出場選手が10年なり20年、日本でのトップとしての地位をキープしていたことを示している。
 もちろん、オリンピック出場選手の選考は、その種目における継続的なトップを選ぶのではなく、出場テストとも言うべき選考のための大会などを経て行われるから、トップ集団とでも言うべきグループ内の順位といえどもそれなり違ってくることもあるだろうし、グループ外からの出入りも当然にあるだろう。

 それにしても、少なくともその選考時点で日本代表として選ばれたことに違いはあるまい。そして同時にオリンピック出場の選考に関して、これまでの名誉加算であるとか当該種目に対する貢献度加算、はたまた年功序列などと言った特典があるとは考えにくいから、その選手のスピードなり技術なりが日本のトップ水準にあることをその選考委員会が明らかにしたのだということであろう。

 だとするなら、3回も4回も5回もの連続出場というのは、それだけそうした先輩を追い抜くだけの実力を持つ後継者が育っていないことを意味しているのではないのか。1年や2年を要しての交替ではない。10年、20年である。少子化で出生数が低下しているとは言っても、人は毎年生まれてくるのだし、オリンピック種目にもなっている競技なら、生徒数減少に悩む過疎地の中学や高校の部活ではあるまいし、新たな希望者が日本中で一人もいないなどということはないだろう。

 それにもかかわらず連続出場である。なんのことはない、この事実は10年も20年もの間、新人の実力が先輩に追いついていかなかったことを示しているのであり、かつそれだけが原因であるということである。

 これはどこか変である。理屈が変だというのではない。事実が変なのである。そういうような育て方をしてきた競技種目の訓練なり教育のせいなのか、それとも先輩を追い抜こうとする気力実力の不足している後輩とも言うべき新人の心構えなり能力の問題なのか、それを論じるだけの知識は今の私にはない。
 しかしながらそんな状態を長期間にわたり続けてきた組織、許してきた組織そのものに大きな問題があることは言ってもいいのではないだろうか。

 かなり昔になるが、大相撲で大鵬が横綱だった頃、こんな風刺漫画が新聞に載ったのをなぜか未だに記憶している。確かに大鵬は強かった。負け知らずとでも言えるくらいに強かった。日本中が「巨人・大鵬・卵焼き」とはやし立てたほど強かった。それでその漫画は、いかにもよぼよぼの老人になった大鵬の土俵入りの絵である。それでもまだ大鵬は勝ち続けているのである。この漫画になんだかオリンピック出場○回目の報道が重なってくるような気がしてならないのである。

 A 安易なメダル宣言

 もう一つ気になることがある。それは参加選手のメダルに対する余りにも安易な自信である。
 もちろん世界一を目指して努力してきたのだし、その成果は結局「メダル」か「入賞」か、それ以外かに分けられるのであり、最悪の場合は「予選敗退」の宣言が待っていることになるのだから、メダルを意識し最高位を目指す心意気に水を差すつもりはない。

 それにしてもメダルとは実力が世界で3位以内であることを示す証である。不可能な望みでは決してないだろうけれど、そんなに手軽に希望して手に入るものではない。長い間の努力と訓練と忍耐、それにオリンピック当日における体調であるとか精神力などを総合した、場合によっては神がかりとも言うべき偶然、一つの「運」にも左右されるほどの重さを持つものだと言えるのではないだろうか。

 そうした重さを実力に裏打ちされた自信からにしろ、そんなに軽々しく口にしてはいけないのではないだろうか。メダルへの希望は心の奥にしっかりとしまい込み、あたかもそのことが信仰でもあるかのような、祈りにも似た感情にしっかりと包んでおく必要があるのではないのだろうか。

 「メダルを取るまでこのスポーツを続けます」。その心意気はいい。そうした気持ちをこれからも続く長く苦しい努力への礎にするのもいい。
 だがそれは密かな自分自身への宣言に止めるべきではないのか。軽々しくテレビカメラに向かってアピールする話しではないのではないかと思うのである。

 B 企業への帰属

 更にもう一つ。これはまったく私の認識不足によるものだけれど、選手のすべて(?)が日本の有名企業に所属していることである。そういう帰属なくしては選手生活を続けていけないほどにも現在のオリンピックそのものが厳しくなっているのだ、精神論だけでは続けられないのだと言われてしまえばそれまでかも知れないけれど、「企業とは利益追求集団である」と仕事を通じて理解してきた老税理士にとっては、どこか割り切れないものを感じてしまうのである。

 C 入場行進

 もう一つだけ言わせて欲しい。それは入場式の参加者である。「JAPAN」のプラカードのもと、入場行進に参加した日本人は238人である。冬季大会最大の参加者数だと報道するニュース映像を見ていたのだが、その構成を聞いて驚いた。選手112人、役員126人なのである。

 1人の選手に関わる多数の人々の存在を否定するのではない。コーチも監督も必要だし、靴や衣服のデザインや性能などに関わる人も多いだろう。また、オリンピックそのものを維持し運営していくための日本人としての役員や国際大会として政府関係の職員が必要であろうことも分かる。1人の選手を支える多数の裏方の存在を否定するものではない。
 また、中には競技への調整のために入場行進に参加しなかった選手もいると聞いたし、裏方専門で入場式などに無関係な人たちもいるだろうから、これが関係者の全部でないことは理解している。

 それにしても、あの華やかで感動を与える入場式を味わうのが選手だけだというなら理解できる。いやむしろ、にこやかに、晴れがましく、時に整然と行進する人々の群れの全員が選手なのだと私は勝手に思い込んでいたのである。入場式も一つの栄光であろう。だがそれはオリンピックに選ばれた選手にのみ与えられた感動の報酬だと私は思っていたのである。それがこの選手112人、役員126人である。

 選手数よりも多い役員の入場行進の事実、・・・・・私の理解は直感である。必要性も合理性も何も考えていない単なる感覚である。だが、私はこのことがどこか変ではないかと思い、そのことが頭から離れないのである。

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 4回、5回もの出場を許さざるを得ないような組織、あっけらかんとメダルを口にする選手、メダルだけが目的のように取材し報道し続けるマスコミ、私企業に帰属する選手、選手数よりも多い役員の入場行進・・・・・。なんだか日本はオリンピックをどこかで小馬鹿にしているのではないだろうかと、少しオリンピックに精神論を持ち込み過ぎているのかも知れないけれど、加熱する連日の報道の中にへそ曲がりはふと感じてしまうのである。



                        2006.2.15    佐々木利夫


  オリンピック11日目を終えた2月20日現在、日本人選手のメダル獲得はまだ一個もない・・・・。

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