日本の少子高齢化のスピードが世界一になったと騒がれ、昨年の出生率が1.25と最低記録の前年を更に下回り、おまけに団塊の世代が間もなく定年期を迎えるなど、人口構成をめぐる話題がこのところ一段とかまびすしさを増してきている。

 このことはつまるところ今後老人が大量に発生するということであり、そうしたことに対応するための金がないとの理由で医療費を上げるだの介護保険のサービス見直しや保険料の増加などが早くも本年実行された。そしてそれでも足りないから将来の消費税増税も視野に入れてなんとかしなけりゃならないと、話はどんどんエスカレートしていくばかりである。

 政府も社会も、いまさら姥捨ての時代に戻るわけにはいかないだろうし、しかも世の中他人に「優しくすること」が様々な分野でのとりあえずのキーワードになっているものだから、老人に対してもそうした運動が盛んになってきつつある。

 つい最近のテレビである。高校生に高齢者の行動を理解してもらおうと、疑似体験の装置を身につけて行動してもらおうとする番組があった。杖を持たせて重りを腰に巻き、片足のひざが曲がらぬようにサポーター(脚絆のようなもの)で固定して階段を昇らせたり街を歩かせたりする。もう1人の女の子には片肘にサポーターを巻いた状態でテレビのリモコンを操作してもらう。更には両膝を曲がらぬように固定した上で、たたみの上で起き上がってもらう、などなど・・・。

 そうしておいてテレビのリポーターは、その高校生に対しそうした身動きできぬ不自由さの感想を聞くのである。
 「けっこう動けるじゃない・・・」なんて言葉はテレビ側としては決して予定していないのだろうし、もし仮に高校生からそうした発言があったとしたならば当然に放送しないことに決めているのだろう、これも一つのやらせ番組だと思わせるような内容だった。

 こうした疑似体験で不自由さを理解させようとするスタイルは、別に高齢者問題に限るものではない。体の不自由な人をテーマにした番組でも同様である。
 歩けない人の疑似体験に健常者を車椅子に乗せ繁華街を歩かせ、目の見えない人の疑似体験に目隠しと杖で歩かせる。

 そうした疑似体験で老人や障害者の不自由さを理解させようとする気持ちの分からないではない。足腰が痛んできて階段の上り下りや洋服の着替えが難しくなったり、老眼や白内障などで視力が衰える、こうした症状が加齢と共に進んでくることを否定はしようとは思わない。

 だがそうした不自由さの事実を分かったことで、老人そのものを分かったようなつもりになることを私は恐れるのである。こうした定番とも言える老人の不自由なスタイルを真似することで、老人を理解したようなつもりになることがなんだかとても厭なのである。

 老人というのは一くくりの集団なのではない。人間、一人ひとりが個人なら、老人だって一人ひとりが個人なのである。年寄りは年寄りらしくなんて一まとめにされ、グループ化されて扱われるのは老人にとっても心外だと思うのである。

 年寄りから、「年寄りにも個性がある」だなんて言われちまったら、言われたほうは困ってしまうのかも知れない。
 だから聞く側としては、年寄りの個性なんてのはないものとして割り切る、無視する、必要がないものとして捨象する、むしろ邪魔だと切り捨てる、そんなことまで考えてなんぞいられないと振り払う、考え出したらキリがないから考えないことにする、何にもできなくなってしまうから聞こえないことにする・・・・・、そうして行き着くところ金がない、人がない・・・・・、へと進んでいく。

 老人ホームなどで、そうした指導する人をなんと呼ぶのだろうか、若い女性が集会室に老人を集めてこんな風に言うのである。
 「さあ、皆さん一緒に楽しくお歌を歌いましょうね。・・・・はい、チーチーパッパ、チーパッパ・・・・」

 また、近くの幼稚園からは園児たちが年に数回訪ねてきて、歌を聞かせ遊戯を見せてくれる。そして園児たちは可愛い声で最後に先生の指導よろしく一糸乱れず声を揃えてこう叫ぶのである。
 「オジイチャン、オバアチャンありがとう。いつまでも長生きしてね・・・・」

 高校生の高齢者疑似体験も同じである。結局、老人は足腰の弱いことのみが強調され、その老人が過ごしてきたであろうこれまでの人生の重みや喜びや悲しみなどを思いやろうとする者など、そこには存在しないのである。
 そのことは例えば知的障害者の疑似体験など見たことがないことからも分かる。なぜか、知的障害とはつまるところ心の問題だからである。心は疑似体験できないのである。心は共感でしか触れ合い理解し想像することができないからである。

 恐らく老人とって若者のように走れないことはそれほど不自由なことではないのではないか。細かい字が読めなくなって新聞が少し億劫になってきたことも、耳が遠くなってテレビの音が聞こえにくくなってきたことも、階段の上り下りに時間がかかるようになったことも、若者が疑似体験で感じるほどそんなに不自由なことではないのではないか。

 己がそうした年齢に近づいてきて、否応なく身体機能の衰えを自覚させられる場面が増えてきているからそう思うのかも知れないが、人はそうした衰えとは自動的に折り合いをつけていくことができるように創られているのではないかと感じるようになってきている。

 老人が今何を考え、何を求めているのかを思いやることなく、決め付けられ固定化された老人スタイルのイメージだけを抱いて高校生は「高齢者疑似体験コース」を授業の一環としてとして終えることになる。

 無関心でいるよりいいではないか、知らないままで過ごすよりもいいではないか・・・、そう思うかも知れないが、ことこれは高齢者固有の問題ではない。人間と言う一人ひとりをどう理解するかの問題だと思うのである。


                          2006.07.08    佐々木利夫


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高齢者疑似体験