最近増えてきているのかどうか必ずしも断定はできないのだが、勝訴した原告が被告である国の行政機関の窓口へ押しかけて控訴しないように要求するという例が時々報道される。

 最近ではC型肝炎訴訟で勝訴した原告団と厚生省の例がある。原告団の中には老齢者もいるだろうし、早く決着をつけたいとする気持ちの分からないではない。
 だが考えてみると、そうした思いはこの裁判の原告のみに限るものではなく、一審で勝訴したすべての当事者に共通した思いであろう。勝訴敗訴と言う言葉通り、裁判は和解などによる決着もないではないがまさに勝負の世界である。

 刑事裁判なら有罪か無罪か、民事裁判なら貸した金や損害賠償金などがとれるかとれないか。判決はいつも右か左かの決断を迫られる。

 判断の基礎は刑事と民事では多少異なる。厳格な証拠による立証を必要とする刑事事件に対し、証拠の採否が裁判官の自由な心証に委ねられる部分の多い民事事件だが、そうしたところで結局は事実を認定し法律を解釈適用していくのは裁判官のみの意思に委ねられることになる。

 だから時に判決も証拠の採用や解釈、結論に至るまでの経過を誤ることがあるし、場合によっては裁判結果を覆すような証拠が新たに発見されることだってないとは言えない。そのための地裁・高裁・最高裁の三審制である。

 ところで「控訴するな」の要求が起きるのは常に被告である国もしくは地方が敗訴したケースがすべてである。裁判が原告被告対等の立場でなされるとするならば、場合によっては行政が勝訴した場合に被告に対して裁判の継続は行政側のスタッフなどの費用の無駄遣いになるから控訴をしないで欲しいと要求してもいいだろうとは思うのだが、そうしたケースは皆無である。

 もちろんそんな言動を行政側がとったとするなら、そうした動きそのものに対し「裁判を受ける権利の侵害である」とばかりに原告はもとよりそれにかかわる弁護士も含めて一斉に声を張り上げるであろうことは目に見えている。
 場合によっては法曹界そのものが行政の司法に対する不当な介入であって三権分立に反した行為だとの大合唱をあげることだろう。

 ところがこの行政が敗訴するという反対のケースでは、敗訴した側が勝訴側に対して控訴するなと要求するという同じ事実に対して、なぜかそうした「裁判に対する不当な介入」と言った声がまるで上がらないのである。原告弁護士までがその要求の先頭に立って敗訴した行政機関へ、勝訴判決を振りかざして高らかに控訴するなと声を荒げる始末である。
 このことだって明らかに三審制と言う司法制度に反した行為だとは思うのだが、なぜかそうした行為に対して弁護士会も、学者も誰一人として疑問の声すら上げることはない。

 確かに控訴断念の要求は命令ではないから、なんの法的拘束力も持たない単なる要請・要望である。だから強制でも拘束でもなく単なるお願いなんだからそれはそれでいいではないかと言うのかも知れない。

 だとすれば同じ主張を相手に認めてもいいはずなのだがそれは許さない。なぜなら、己が手にした勝訴判決は、主張する側に言わせるならば正義の証であり、長年虐げられてきた国民に民主主義が認められた画期的な証だからであって、誰もが従わなければならない水戸黄門の印籠だからである。
 もちろん敗訴した場合は、その言い分が国民をないがしろにした反動違憲不当な判決との表現に変ることはいうまでもない。

 勝つために闘ってきたのだから、勝訴判決を確定させたいと思うのは当然のことである。
 だがちょっと待って欲しい。敗訴した被告は行政庁である。その相手先は厚生省であったり警察庁であるなどさまざまだろうが、つまるところ被告そのものは「国」である。

 裁判所は被告である「国」に損害賠償なり損失補償なりの支払いを命じたのである。その裁判が確定した場合、被告はその金銭を支払わなければならない。当然のことである。
 でも「国が支払う」ということは、つまるところその支払いの原資は「税金」しかない。そして税金はどんな形をとるにしろ国民が負担する以外に途がない。

 そうしたとき、仮にその支払いを命じた裁判所の判断が誤りだと思うときは、その誤りを糾したい、つまり賠償金の支払う必要がないと国民が思うのもまた当然のことである。
 ならば一人ひとりの国民が、その判決が誤りだと主張して個人的に控訴したり最高裁判所へ上告することが許されるのか。そんなことは制度上認められていないし、第一そうした主張を認めてしまったらおよそ国に対する裁判の成立そのものが不可能になってしまうだろう。

 だからその場合、敗訴した被告・国、つまり厚生省などの行政機関は、その誤りを糾すために国民に代わって控訴しなければならないのである。
 こうした場合、厚生省の勝手な思惑で控訴がされたりされなかったりなど恣意的であってはならないのは当然である。国は判決が正しいかどうかをきちんと判断して、誤りだと思われるときは行政庁の思惑や面子のためではなく、国民の意思として控訴しなければならないのである。
 それが行政を国民から附託された機関としての守らなければならない当然の義務なのである。感情論や同情論に流されることなく、事実と法律に照らして裁判所の判断が正しいかどうかを検証することは、国民に対する避けることの許されない責務なのである。

 国が被告として訴えられたということは、原告も国民であるかも知れないけれど、被告も同時に国民なのである。だからこそ敗訴が確定した場合には国民がその敗訴に伴う損害賠償を支払わなければならないのである。

 そうした裁判結果に対して「控訴を断念せよ」と要求するのは、言ってる方は厚生省と言う看板に向かって叫んでいるつもりかも知れないけれど、その門の中には日本国民全部が入っているのである。

 だから、被告がその判決を誤りだと思っているにもかかわらず控訴せずに従えと要求することは、三審という司法制度をないがしろにしているというのとは別に、原告となった小数の国民が全部の国民に向かって正しい裁判を受けるという国民の基本的な権利(この場合は裁判所から命じられた損害賠償金を税金で支払わなくてもいいかも知れない権利)の放棄を求めていることになるのである。
 そして被告行政庁がそうした声に従うようなことがあるとすれば、その判断は国民に対する重大、いやいや決定的に誤った決断であり、決してそうした声に流されてはいけないのである。

 おそらく原告のそうした要求は、損害賠償が国という独立した機関から支出されるということのみにとらわれて、向こう三軒両隣のおじちゃんおばちゃんや、法人税も消費税も含めた「国民の税金から支払われる」という意識がなくなっているのではないのだろうか。

 国は何兆円もの予算を持っているのだからいくらでも払えるはずだと、要求するほうは思い込んでいるのではないか。税金を払う国民も、公務員の無駄遣いであるとか官庁工事の談合などには「税金」という顔がでてくるけれど、そうしたことから少し離れてしまうとすっかり自分とは無関係なレベルに我が身を置いてしまう。

 日本国民に納税者、つまり「タックスペイヤー」としての意識が育たなかったことには色々な原因があるだろう。お上に従うことで争うことを避けてきた長い伝統は、長いものに巻かれ、台風一過でさわやかになり、何事も水に流して争いを納めてきた民族にとって簡単には直らないかも知れない。

 だがそうした意識、上から落ちてくる甘い水を意識することなく享受してしまう国民性が、現在のさまざまなわがままとも言える国民の不満、そしてそれに対応していけなくなっている行政の姿勢にもつながっているのではないのだろうか。

 国や地方の財布だって、まったくの他人の財布なのではない。天に向かって吐くつばは己に降りかかるだけだからいいけれど、税金のつばは隣の人や遠く離れた地域の人たちの顔にも降りかかるのである。
 それとも、自分に利益が及ぶなら隣人がどうなろうと知ったことではない・・・・、なるほど、考えてみたらそれもそうだよね。


                          2006.09.07    佐々木利夫


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控訴断念要求