難聴者が要約筆記を受けると有料になることを批判しているテレビ番組を見た。要約筆記とは手話でのコミュニケーションが困難な聴覚障害者に対する第三者の介助によるメモの作成方法を利用した意思伝達手段である。
 この要約筆記を利用した社会参画は、聴覚障害者が活動したいと思えば思うほど自らの負担が多くなることを意味するから、その負担を望まないならば結果的に動かないで自宅にひきこもることを助長する恐れがあるという論理である。

 なるほどよく分かる話である。だが、そんなこと言っちまったら自己負担があるから病院に行かなくなる、お金がかかるから薬を飲まなくなったりバスの乗らなくなったりするという自己負担を伴うすべての行動に対する評価とどこが違うのだろうかと思ってしまう。

 健常者を平均値として、それと異なるサービスには相応の負担を求めるというシステムは、そうした対象者に相応の負担を求めるという、そうした事実だけで問題だとする意見は、理屈が全然通らないとは言わないけれど、どこかストンと気持ちの中に収まっていかないものがある。

 それは結局はないものねだりであり、平等こそ正義、そしてその果てに「国や地方がなんとかせい」と話が続くであろうことは火を見るよりも明らかだと想像できる。そうした「なんでもかんでも人任せ」になってしまう現代の様々な正論と言われるような主張は、努力とか勤勉とかひたすらなどと言った自分が自分を育てることに結びつく基本的な意識をどこかへ放棄してしまったわがままを示しているような気がしてならない。

 「完全参加と平等」と言う言葉がある。これは国連が掲げた国際障害者年へのテーマの一つではあるが、これをなんでもかんでも平等が正しいというような使い方に利用されてしまうとどこか違うのではないかと思ってしまう。

 こうした独善的とも言える平等の概念はそこここに蔓延しだしてきている。平等を唱える側も要求する側もそうすることが正義であり、叶えないことは罪だとばかりに他者だけを責める。

 知識を得ようとする意欲はあるが本を買う金がない。絵の才能があるのに絵の具が買えない。こんなに才能があるのにその才能を理解し育て開花させてくれるスポンサーがいない。あの山の頂に登れば心が晴れ晴れとしてリラックスできるのに、そこまで行くための交通費を負担してくれる人や背負って登ってくれる人がいない。世界一の有能な医師の手にかかれば直るかも知れない病気なのにその費用がない。

 聴覚障害者の要約筆記の問題と金がなくて美味いりんごを喰えない我が身の嘆きとを比べることは間違っているかもしれない。だが、人は一人ひとりそれぞれが違うのだと思う。そしてその違うことを事実として受け止め、違う事実には違う結果がついてくることをきちんと認め理解しないと、世の中全部他人任せの不満の渦になる。

 人間をそんなヤワなものだと定義してはいけないのだと思うけれど、満足することの少なくなった人間が巷には溢れかえっている。

 だから教育が必要なのだと、心ある人は思ってしまうのだろうか。
 しばらく前からNHKの番組に「ようこそ先輩」というのがある。大人になってそれなり社会的に成功したと思われる著名人が幼い頃に卒業した母校の小学校を訪れ、そこの小学生の一クラスの生徒に己の人生哲学を伝授するという番組である。

 しかし、これもまた反対の意味で鼻持ちならないものがある。「子供は無限の可能性を秘めている」とは良く聞く言葉だけれど、言ってる本人がどこまで信じているのかはとても疑問であるし、現実は口で言うほど単純なものではないと思う。

 人は必死に努力すれば全員が100メートルを10秒で走ることができるのだろうか。人は平等の能力を持ち無限の可能性があるのだから、だとすればそれは可能だと本当に思う人がいるかも知れない。
 しかしながら、普通の生活を普通に送ってきてそれなり一生懸命に生きてきたと自称する当たり前の大人としては、「ようこそ先輩」みたいな発言は気恥ずかしくてとても人前でなど発表できないし、ましてやテレビの前で堂々と他人に伝えるなどというのはどこか傲慢による錯覚ではないかとさえ思ってしまう。

 確かにその有能なそれぞれの先輩はオリジナルな絵画を描き、新聞に名前が載り、オリンピックに出場することで世界に通用する生き方を選ぶことができたかも知れない。そしてその過程には、場合によっては親から認められなかった幼児体験、友達から馬鹿にされた学生時代、貧しく報われない無名で悲惨な青春があったかも知れない。そしてだからこそそうした不遇にめげずに努力した結果として今があるのだと伝えたいのかも知れない。

 でもそれを努力と精神論だけのせいにするのは間違っている。「どんな人にもそれぞれの才能がある」という言葉は凡人の耳には心地よく響いてくるけれどそれは嘘である。何を才能と呼ぶかは必ずしも明らかにはできないけれど、少なくともある程度の大衆に認められることを意味することには違いなかろう。

 卒業式の定番曲「仰げば尊とし」はそのフレーズの中で「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」と歌ったし、「末は博士か大臣か」の言葉も、人は多くの他人から認められること、賞賛されることを勝利だと教え込まれ、言い方を代えるなら「有名になること」を人生の目標にするように求められてきたことの結果を示している。

 しかしほとんどの人は偉人伝に掲載されたり、役場や公園の前に銅像が建つなんてことは決してないのだし、それが目的であっていいはずがない。

 当たり前で普通の人生もまた勝利なのだと人はどこかで了解しなければならないのではないだろうか。そうした並みの人生を過ごしてきた多数の集まりを実は社会と呼ぶのであり、テレビや新聞に出ることもなく向こう三軒両隣の僅かな人達にしか覚えられていない存在であっても、それを敗北ではなく素晴らしい一つの生き方なのだと、そんな風に子供たちに伝えていくことのほうが、頑張れ頑張れと号令かけて一等賞を狙わせることよりずっと大切なのではないだろうか。

 世の中、なんとなく金太郎飴だらけになって平等こそが正義であり、そこからホンの僅かでも外れてしまうと「外れたのは俺のせいじゃない、誰かがなんとかせい」の合唱が始まるように思えてならない。

 正月早々あんまり楽しくない話題になってしまったけれど、新潟を中心とした記録的な大雪、生後11日目の乳児誘拐(無事保護、犯人逮捕)、日本初の人口減少、団塊世代の大量退職などなど、多難な幕開けに見える平成18年の正月をいまの世の中こんなものなのかも知れないと少しはすに眺めながら老税理士もそこそこ元気です。

 笑い事ではないのですが、ついこの前の成人の日に寄せた新聞の投書に「二十・・・・ニートと読まないで」とあって、おもわず噴き出してしまった。
 でもこのジョーク、なんだかとても怖いですよね・・・・。


                        2006.1.10    佐々木利夫


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