「人は自分の信じたいと思うことしか信じない」、最近のテレビを見ていてそんな風に感じてしまった。例えばドラマ。弁護士も警察官も検事も、出てくる誰もがそれが正義のためだろうが犯人でっち上げの手段だろうが、「本当のことを言え」と相手を責める。そしてその「本当のこと」とは、自分にとっての「こうに決まっているだろう」と思い込んでいるストーリーに沿った相手の自白のことである。つまりはそのストーリーに沿っていないそれまでの被疑者や関係者の主張は嘘だと思い込んでの発言である。

 ドラマばかりではない。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの夫だったとされている男性が「彼女は既に死亡していると発言した」との報道が最近あった。北朝鮮政府のこれまでの発言に沿う内容であり、そのことに対する日本人の反応がどこか気になる。識者の論評はもとより新聞への投書などにも男性の言い分はすべて嘘であるとする問答無用の一方的な意見が余りにも多過ぎるような気がしてならないのである。

 両親が娘の死を信じないというのは分からないではないけれど、夫だったとされる人物が彼女の死を告げても、その発言は「三文芝居にも劣る風景」であり、北朝鮮の「拉致はないものとする演出」であることをなんの証拠も示さずに断じる(7月2日朝日、読者投書)のはどこか独断に過ぎるのではないか。

 同じ日、ひき逃げ犯として逮捕され無罪を主張しながらも認められず、10ヶ月もの拘束を経てやっと誤認逮捕を警察が認めたとの報道もあった(7月2日朝日)。しかもひき逃げをしたとされる車両にその男は乗っていなかったというのである。

 男の主張は単純である。「乗っていないのだからひき逃げなんぞできるはずがない」と言うに尽きるだろう。10ヶ月もの間である。逮捕され拘束された男は繰り返し繰り返し、飽きるほどにもこの事実を主張したはずである。
 だが、これしきの事実すらも信じようとしない者の耳には届かないのである。

 もう一つあげてみようか。これは最近厚生労働省が発表した一定以上の年収のある者の労働時間規制からの除外という労働法制の見直し論へ反対する新聞読者の投書である(7月8日朝日)。彼は「私も仕事を通じて、『月に50〜80時間の残業。7年間、手当ては1円も払われていません』という話を聞く・・・」との話しを反対論の例示、つまり証拠として掲げている。伝聞は証拠能力が弱い(刑事事件では証拠能力がないとされている)ということ以上に、この話は7年間もの間休日がなかったか毎日ように残業の状態にあり、しかもその残業代の支払いが皆無だと言っているのである。もちろん私はこの意見に反証を挙げることはできない。でも普通に考えてこの話は嘘だと思うのである。こんな話で他人を説得などできないと思うのである。

 人生への警句だなんてそこまで思い込んでいるわけではないのだが、私には自分自身に言い聞かせている一つの言葉がある。そもそもこの言葉を知ったのは職場に入ってからの研修によるものだと思うから、二十歳をかなり過ぎていたとは思うのだが、なぜか気になって「そうだ、そうだ」といつも心のどこかで反芻しているのである。

 そんな言葉をこんな風に正面切って口にするのはどこか気恥ずかしい思いがするのであるが、こんな一言である。

 「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法第317条)

 もちろんこの条文は刑事事件についてのものである。証拠裁判主義の鉄則とされている基本的な考え方であり、逆に言えば人の心をも拘束する刑事裁判の基礎である。

 人は弱い。思い込みや身勝手から逃れることは思うほどたやすいものではない。習慣やこれまでの生き様やパターン化された思考過程から人はどうしても逃れることが難しい。
 だからそれが人なんだと定義付けることはたやすいが、その判断が時に誤りを生むことは自分自身がなによりも承知していることである。

 そうした過ちを犯さないために一度事実へ戻ることの重要さを、この刑訴法の短い条文はしっかりと教えてくれている。ある事実を事実と認定するためには判断以前の証拠が必要だと思うのである。そしてそうした証拠のないときは、決してそうした事実を安易に事実だと認定してはいけないのだと教えているのである。

 そんなこと言っちまったら、世間話や噂話なんぞできなくなってしまうではないかと思うかも知れない。その通りである。物事を客観的に判断できるようなそんな事実は、我々の前にはなかなかどうして摘示される機会の少ないのが現実である。

 だから私たちはそうした事実認定の基礎となる証拠の多くを新聞であるとかテレビなどの情報に頼るしかないことになる。

 だからこそ、報道する側は例えそれがワイドショーのような客寄せを目的とする番組であっても、この「事実の認定は、証拠による」を報道の基礎に置いて欲しいと思うのである。それが国民に対する報道の義務であり、国民もまた流言や風説に惑わされることなく事実を見る目を育てていく必要があるのではないかと思うのである。

 「人は自分が信じたいと思うことしか信じない」・・・、この文章の始めに私はこう書いた。そしてあらためて思うのである。そうした「人」の中には私自身も間違いなく含まれているのだと・・・・・。



                        2006.7.8    佐々木利夫


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