少子高齢化どうする
  
 出生率が低下している。だから年金と福祉が大変だと政府も識者も大騒ぎである。なるほど後世代が老齢者の年金や介護や医療などを支持するというシステムで成り立っている現在の方法は確かに人口減少で大きな影響を受けることだろう。

 だが、だからと言ってそのことがストレートに女はたくさん子供を産めという理屈に結びついたり、そのことが契機になって男女共同社会の推進だの育児休暇の徹底だのという話に結びついてしまうのはどこか変なような気がする。

 確かに子供が増えてその増えた子供たちが親のためにお金を出し合うと言うのだから、親の立場からすれば自らの負担なしに老後が安定するという意味ではこれほど楽な話しはない。そしてそうしたやり方は自分たちが自分の親のためにしてきたことなのだと言われればなんとなく反論しがたい面もある。

 でも本当に子供を増やすことで解決するのだろうか。解決すべきものなのだろうか。我々の世代はひたすら先輩や親の年金を払うために働いてきたのだろうか。これまでの日本社会における人口の年齢構成が裾野が広くてっぺんが尖ったピラミッド型になっていて、裾野を占める人たちがてっぺんを支える結果になっていたことは事実である。
 だがそれは結果であって意識ではなかったのではないのだろうか。

 なるほど後世代が老齢者を支えるという考えはいかにももっともらしく聞こえる。そしてそれを前提にした社会構成を構築してしまったら、老人を支えるための赤ちゃんの増加というシナリオは必然的に出てくることになるだろう。

 ところでこうした下の世代が上の世代を支えるという考えの基本には、赤ちゃんはいずれ老人になるというそんな当たり前とも言うべき発想が欠けているのではないだろうか。そうした老人になった赤ちゃんを支えるのは一体だれなのか。システムがそうなっている以上、その役目は当然に新しい赤ちゃんが負うと言うことになる。
 そして赤ちゃんの増加は必然的にやがて来る老人の増加を意味し、老人の増加は更なる赤ちゃんの増加なしには支えていけないことになる。

 かくて赤ちゃんは増加し続ける。毎年毎年赤ちゃんは増え続け、その増えた割合で老人もまた増え続けていく。いやいや、アンチエィジング(抗加齢)のための様々な技術の開発や研究が盛んな昨今である。秦の始皇帝が見果てぬ夢として求め続けた不老不死の研究は今後とも続けられていくことだろう。だから人は少しずつ死ななく(?)なっていく。終末としての人の死は避けられないとしても、少なくとも高齢化はますます著しくなっていくだろ。それを加味するなら赤ちゃんの増加はそれを超えなければならない。

 どこまで増加すればいいのか。この増加に歯止めの限界はない。永遠にである。世界中を日本人が埋め尽くし、それでも人口は増え続けなければならない。
 まるで子会員を増やし孫会員が数代前の会員に手数料を支払うことで利殖が拡大的に続くという数年前に流行し、今も形を変えて増殖している「ねずみ講」のようにである。

 神は「産めよ、増えよ、海の水に満てよ、鳥は地の上に増えよ」と命令した(聖書、創世記第一章22節)。だがねずみ講の命令はこの程度では満足できないほど切羽詰った命令である。だからねずみ講は最初から破綻が運命付けられているのである。

 本当に赤ちゃんを増やすことしかないのだろうか。人の欲望に際限はないから、楽して暮らしたいと思う心に歯止めをかけることは難しいかも知れない。でもいつの間に人はゲートボールやパークゴルフなどの何の生産性もないゲームにうつつを抜かし、老人福祉とやらの恩恵の下でなんにもしないで生活することを理想とするようになってしまったのだろうか。

 姥捨て伝説の時代にまで戻ろうとは思わないが、少子高齢化の解決を赤ちゃんの増加に寄りかかろうとする考え方はどこか違うような気がしてならない。
 ましてや「赤ちゃん一人につき何万円の支給」だとか「就学援助費の拡大」なんてのはどこかで視点がずれているような気がしてならないのである。

 女性は、いや夫婦と呼び代えてもいい。今の人は金がないから子供を産まない、育てないのだろうか。もちろんそうした人が決していないとは言えないだろう。でもそれはそういう人もいるというだけであって、子供を産み育てるということを金で解決することとはどこか違うのではないだろうか。

 男女共同参画の時代といわれて久しい。そうした今の時代から比べるなら、私の育った戦後間もない時期と言うのは既に歴史の中の出来事でもある。
 だから今更せん無いことなのかも知れないけれど、ふと、私の高校生時代に続柄10女というクラスメートがいたことを思い出す。記憶に残っていたということは、当時としても10女という子沢山は珍しかったからなのだろう。でも兄弟姉妹が全部で10人近くいるという家庭はそれほど珍しいことではなかったような気がする。

 そんなに豊かな生活だったのか。とんでもない、戦後の貧しさなんぞは今の人ならさしずめ一家心中を考えるだろうほどにも厳しいものだった。
 そんな子沢山だから母は仕事に就くことなどできなかったし、また専業主婦といわれるような生活スタイルがそもそも家庭の基本でもあった。

 電灯こそあったが電化と呼ばれる生活など無縁な時代である。せいぜいがラジオが唯一の娯楽であり映画だって年に一度か二度という生活であった。
 それでも「貧乏人の子沢山」と言われるほどにも家庭に子供はあふれていた。生活苦で産婆も含めて水子を承認した話しは聞くけれど、貧しくたって子供はたくさんいたのである。

 そうした時代を経て、今は空前の娯楽社会になった。テレビ映画どころではない。グルメや海外旅行からブランドのハンドバックや貴金属製品まで、「食う寝るところに住むところ」だとか「起きて半畳寝て一畳」などと言われたかつての謙虚さなど忘れられたように人々の欲望は際限のないものになった。

 休みない時の刻みは人の思いに関係なく前へと進んでいく。だから少子高齢化とは単なる少子の結果でしかない。そして人が子供を産まなくなったのは産み育てることに魅力を感じなくなったからである。そのこと以上の価値ある人生を見つけ出したと思い込んでいるからである。

 それが人の思いなら、それはそれでいいのではないか。そうした「価値ある人生」を作り上げてきたのも人である。戦争や殺戮による子供の減少なのではない。「産まない」という人々の意識の累積の結果である。
 「産みたいけれど金がないから産めない」のではない。「産む以上の別の価値を見つけた」のである。そのことのどこが非難されなければならないのか。

 これからも少子化は続くだろう。金をばらまくことで少しは子供が増えるのだろうか。「産むこと以上の価値」を金で買い取ってしまうことで親は子供を産み慈しみ育てていくことができるのだろうか。

 食い物のことや遊びが過ぎて兄弟げんかが絶えず、屋根や木に登って世界を支配したつもりになり時には落ちて怪我をする、言うことを聞かないと親や先生や隣近所から年中叱られ通しだった子供時代。

 過ぎてしまった遠い時代かも知れないけれど、そこには家族の団欒があった。自分の分をわきまえ、相手のことを考えることが当たり前のこととして存在していた時代がかつては確かにあった。

 私たちはそうした大切な家族への思いという貴重な財産を、ブランドの洋服を手に入れることと交換にあっさりと捨て去ってしまったのではないだろうか。

 ゴールデンウイークのさなかである。過去最高の海外渡航者数、80キロにも及ぶ高速道の渋滞、ペットホテル大盛況などを伝えるテレビ・・・・、そうしたことと少子高齢化とは無縁ではないのではないのだろうか。

 やっぱり人はどこかで道を間違えてしまったのかも知れない。日本中がはしゃぎまわっているゴールデンウィークをこの小さな事務所で過ごしてしまった男は、恨み言ともつかずひとりポツネンと呟いているのである。


                     2006.05.06    佐々木利夫



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