流れの中で一緒に漂っていると、流れそのものにも鈍感になってしまい変る流れに気づかずにいることが多くなってくる。

 いつもの仲間との飲み会である。事務所で飲んで二次会はどこにしようかと酔っ払いの気まぐれの中で、夜空の商店街の屋上に輝くネオンのほとんどが消費者金融であり、商店街そのものが飲食店に乗っ取られていることにふと気づかされる。

 歩いているのは商店街、つまり繁華街である。繁華街にも色々ある。新宿歌舞伎町や札幌すすきのなら、飲食店が軒を連ねていたところで何の不思議もない。だが我が事務所から続く商店街はもともと国鉄(現在のJR)琴似駅から延びるいわゆる駅前通商店街である。

 こうした商店街は、いわゆる表通りには小売店が並び、その少し裏手の小路や駅裏などに小さな飲み屋のたむろする姿が普通であった。それがいつ頃からだろうか、小売店舗が姿を消すようになった。

 話は変るが、税務署の仕事は主として納税者が正しい申告をしているかどうかを確かめることにある。そうした担当部署は大きく個人と法人、つまり個人経営の商店などをチェックする部門と会社などをチェックする部門に分かれている。

 私は長く個人を担当するセクションにいた。仕事のシステムに変遷はあったけれど、最初に担当した頃は主に職業、つまり納税者を業種目で分担する仕組みになっていた。個人経営でも世の中には様々な職業がある。それを署内の職員でそれぞれ分けて受け持つのである。

 本当に様々な職業があった。医者や酒屋などの比較的羽振りのいい職業から、街に数件の鍛冶屋や仏壇屋などまであらゆる職業があった。
 担当を決めるのは上司だが、納税者の所得が高いほど一般的に業態も複雑であり調査も難しいことから医者や酒屋などは大先輩が受け持ち、次いで飲食店などの華やかな職業が位置していた。そうした部署に配置された頃、つまり私のような新米には比較的所得階層の低い、しかも管轄内にそれほど件数の多くない雑多な業種が回ってくるのが相場と決まっていた。

 したがって受け持つ件数そのものは先輩とそれほど違わないものの、その業種目数たるや極めて多く、署内では一括して雑種目担当などと呼ばれていた。そして経験を積んでいくごとに少しずつ鮮魚、青果、土木、建設などと言った重みのある職業へと移っていくのである。

 そんな時代がけっこう長く続いていたので、どの程度の経験を積むことでどんな職業を担当するようになったのか今となっては記憶が定かではないのだが、初心者の頃には例えば蹄鉄屋であるとか炭焼きなどを担当した記憶がある。考えてみればそうした職業がその当時現に存在していたということでもある。

 自分の担当だからと言って全部の納税者に接触することなど無理だったから、地域を決めて年に数回訪問しては今年の景況であるとかその職業に特有の情報などを聞きまわっていた。それは、まだ記帳習慣のなかった時代、そうして得られた情報が、年が明けて確定申告の時期になると担当する納税者全部に税務署へ来てもらい、その時に正しい申告をしてもらうための話し合いにどうしても必要な知識だったからである。

 仕事の話が長くなったが、そうした担当する納税者宅を回っていた頃のことを考えてみると、そうした職業の人の多くが店を持っていたということに改めて気づかされる。魚屋も床屋も鍛冶屋も豆腐屋も、それこそ蹄鉄屋も、いわゆる「店」を持っていた。そして本人も家族もその店の二階や奥に住んでいた。

 いやいやそうした小売りのように、店舗がなければ営業ができないような職業ばかりではなかった。表具、屋根板金、バケツや煙突の板金、大工、左官、ペンキなど、いわゆる職人と呼ばれる職業人もまた、必ずしも表通りではなかったけれど玄関先を仕事場にしたいわゆる「店」を持っていた。

 職住分離などと言う言葉が使われだしたのはいつ頃からだったろうか。店から生活の臭いが消え、そしていつの間にか店そのものが消えていった。酒屋も金物屋も布団屋も時計屋も眼鏡屋も、つまりは小売店と称するほとんどが商店街から消えていったのである。

 もちろんスーパーがあり、ホームセンターがあり、コンビニがある。そうした中にほとんどの職業が入り込み、それぞれに店を持ち多くの商品を扱っている。
 だが、いわゆる商店街からは呉服屋も写真屋もおもちゃ屋も本屋も消えてしまった。僅かに目に付くのは床屋、パーマ屋、そして飲食店くらいであろうか。

 そうした僅かに残っている店とても変化からは逃れられないようである。理美容の多くはファッションを売り物にした若者向けのきらびやかな店構えとなり、かつての床屋、パーマ屋などとと呼ばれた時代のイメージはない。

 飲食店とても例外ではない。この琴似界隈の目抜き通りでも、少し裏通りに構えていた飲食店がいつの間にか表通りに居酒屋として軒を並べるようになり、しかもあっと言う間にそれこそ知名度の高い居酒屋チェーン店に席巻されてしまっている。そこではマニュアル言葉しか知らない店員に囲まれて、カウンターの中の無愛想な親父と会話することなどまるで不可能になってしまった。

 かつて豆腐屋の二階で店の親父から豆腐の作り方などを教えてもらったことがある。一升の大豆から何丁の豆腐ができるのか、おからの割合はどのくらいなのか、油揚げに必要な油の量などなどを聞き取り、やがて大豆の仕入量などからその店の売上状況を推定できる知識を身につけるなどの努力が仕事の一つでもあった。つまりは自分の担当する職業に精通することこそが、担当者に与えられた仕事でもあった。

 縄の消費量と樽詰めタラコの出荷量の関係、一升の酒からこの店は何本の銚子を取っているのか、ネックペーパーの仕入量と理髪人員の関係は、そば粉と小麦粉の混合割合と売上の関係は、店先に並んでいる商品に隠された仕入れ先のものはないか・・・。それは納税者と税務職員との一種のせめぎあいでもあったのだが、そうした職業の様々なノーハウを知ることが仕事であり、それを教えてくれた「店」そのものが教師であった。そうした店が、いつの間にか姿を消していった。

 それが時代なのだ、時代はいつも待つことなく変っていくものなのだと言ってしまえばそれはそうかも知れないけれど、そうした一軒屋としての商店の消滅は、どこかで我々が持っていた知恵であるとか歴史などの、大切に積み重ねてきた財産の消滅を示していることでもあるような気がしてならない。

 巨大スーパーが食堂や映画館などまでも巻き込んで、巨大な駐車場とともに郊外化し、かつての商店街にはシャッターが閉まったままの店舗が多くなってきているという。
 経済の構造的変化だと言ってしまえばそれまでかも知れないけれど、やっぱりどこか我々は行き先の選択を間違っているような気がしてならない。

 この日、飲んだくれの二人連れは結局、駅に程近いなじみの居酒屋で、それほど歳の違わないママを相手に仕事の愚痴や世の中の「いじめ」どうするなど、酔いどれではどうにもならない繰言をくどくどわめいているのであった。



                          2006.12.9    佐々木利夫


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商店街の異変