間もなくチラホラと雪の舞いおりてきそうな季節になって、いまさら夏休みの話題もないだろうが、本州の夏休みの終わり頃に聞いた課題研究の話がどうも頭の隅に引っかかったままになっている。

 私の小中学生の頃の夏休みはいわゆる宿題がたっぷりとあり、それに日記だとか工作と称する何か作品を仕上げることも付け加えられていた。
 女の子などは絵日記などに手間隙かけていたようだが、私などは後日まとめて一気に書き上げる、それも友達と遊んだことを「そして」という接続詞でつなげていくのが通例みたいなものだった。

 特に先生も内容にまでとやかく言うことはなく、とりあえず毎日書いてさえあれば特に叱られることもなかったのでそんなに苦労した記憶はないのだが、たった一つ曜日の次に書くその日の天気だけは後から思い出そうとしてもなかなか出てこなかったことを覚えている。

 そうした中で作品を作ることだけはなんとなく一生懸命だったと思う。手近の木材の端っこを使った鉛筆立てや板切れを重ねて五寸釘を潜望鏡に見立てただけの潜水艦もどきの作品もさることながら、ボール紙で作ったロボットまがいの作品や、近くの山から木の葉や草をむしってきて新聞紙にはさんで乾燥させただけの植物標本などは今でも微かに記憶の隅に残っている。

 前置きが長くなってしまった。今日の話は、東京に近いらしい町での夏休みの課題研究を取り上げたNHKの朝のテレビニュースである。夏休みも終わりが近くなった頃の番組で、「両親も子供も学校の宿題に追われていることでしょう・・・」とアナウンサーの声である。
 そこで、課題研究のためのこんなお役立ち情報はいかがと話が続く。

 場所は高速道のインターチェンジから降りてすぐそばの民営の公園だそうである。そこでは子供のために虫取り網の使い方やつかまえた標本の並べ方などを専門の指導員が親切に教えてくれ、おまけに帰りにはカブト虫一匹お持ち帰りができるというのである。

 若い両親の笑顔に囲まれて、子供も大満足である。捕まえた昆虫を標本にしたり、貰ったカブト虫を絵日記にするなど、学校の課題研究もこれで仕上がったことになる。
 子供は宿題から解放され、親は子供が自然に触れることができたと共にご満悦である。

 これでいいのだろうか。これを自然に触れたと言うのだろうか。
 場所からして当然に車で行かなければならないところであり、そのことは必然的に親の付き添いが必要であることを意味している。そしてこれも当たり前のことだろうが、その場所への入場料も必要だろうし虫取り網の借り賃や使い方の指導料も必要だろう。仮に網や指導は無料だとしたところで、そのコストが入場料に含まれているであろうことは理の当然である。

 私は親掛かりであることやコストのかかることをとやかく言いたいのではない。父と共同して作った船の模型だって、母親が布を裁ってくれた袋を慣れない手つきで縫うことだって、それはそれで貴重な体験である。親の連れて行ってくれたキャンプの思い出だって何にも代え難い思い出を作ってくれることだろう。

 だがこの虫取り網の使い方を高速道路のすぐ脇の公園の指導員に教えてもらってやるような観察を、その公園の維持者も親も子供も、そしてそれを報道する側も、こぞって自然体験だなどと持ち上げていることが、なんだか鼻持ちならないのである。
 表面がガラス張りの木箱のなかに昆虫を何匹か入れ、それを「昆虫標本」などと称してデパートから丸ごと買ってきて学校に持っていくのとどれほどの違いがあるというのだろうか。
 買ったのは親だし、子供が自分の小遣いで買ったのならそれは自分の意思かも知れないが、でも作ったのは決して自分ではない。

 折角両親に連れられていった場所で、それまで経験したことのない昆虫採集の仕方を教えてもらい、その上夏休みの課題研究まで仕上がったのだから、それはそれでいいではないかと思うかもしれない。
 誰にだって父親に連れて行ってもらった魚釣りや、母親と行った動物園の思い出くらいあるのだし、それとそれほど違いはないではないかと言うかも知れない。

 だが私にはこの課題研究の達成という結果が、お仕着せによるものだとのイメージが抜けきれないのである。両親も子供も、どこか商業ベースに乗せられた傀儡(かいらい)になってしまっているような気がしてならないのである。

 人が経験を積んでいくというのは、自分の道を自分で作ることである。他人の敷いたレールの上を安全に渡っていくことではない。
 他人任せの一番の問題は達成感のないことである。挫折や失敗のない、真綿に包まれた成功と成就に守られた結果から本物の達成感を得ることは難しいだろう。仮に達成感らしき感情が得られたとしても、それは自分の道しるべには成り得ない。

 この親任せ、業者任せの自然体験をした子供は、甘露にも似た貴重な達成感を自らの手で放棄し味わうことを拒否してしまっているのである。しかもそのことに親も加担していることに少しも気づいていない。
 私はこんなことで自然体験だなどと思って欲しくないのである。

 子には「自分で考えろ」、親には「子供が自分で考える力をつけさせろ」、そう言いたいのである。「自分で考える」とは結果の全部に自分だけで立ち向かっていかなければならないことである。挫折の重さと苦さを味わうことである。そこから這い上がるためのエネルギーを自力で蓄えていく努力が求められることである。

 人生は結局自分だけのものでしかない。もちろん人生も他者とのかかわりとしての生活であり社会である。家族や仲間や隣人などを抜きにして人生を語ることなどできはしない。それでも人生は自分の足で歩くしかない。

 他人に考えさせたり、それに頼り従うことは、今の時代あまりにもはびこっているような気がしてならない。人はだからなんでも他人のせいにしたり、責任転嫁をまず第一に考えるような風潮に流されてしまったりするのではないのか。

 この体験型公園のような「どんなことでもご要望に応じます」というスタイルは、「隙間を狙う産業」がはびこってきた結果なのかも知れない。成功体験すらも商売になる時代になった。人はますます強くならなければたくましく生き抜いていけない時代になってきたということなのだろうか。
 達成感を味わうことに希薄な少年がどんどん増えていっている。



                          2006.10.17    佐々木利夫


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夏休みの課題研究