8月15日が過ぎ、戦後日本を巡る報道も一段落したようだが、戦争と呼ぶか内乱と呼ぶか、はたまた侵略とかテロなどと呼ぶかはそれぞれ当事者の見解によるのだろうけれど、戦いは今も世界のいたるところで続いている。

 統計ではなく単なる直感でしかないけれど、戦争は私の知っている米ソ冷戦などというとてつもなく旧い時代感覚からの記憶からすると、むしろ増加し拡大さえしているように思えてならない。

 7月12日、ヒズボラによってイスラエル兵が拉致された。イスラエルはヒズボラをテロ集団と位置づけ、これを弱体化させるとしてレバノンへの侵攻を開始した。犠牲者は1100人を超えた。レバノンでは人口の四分の一に当たる約100万人が家を追われ避難生活を送っているという。

 それぞれに言い分はあるのだろうけれど、相次ぐ爆撃の前に世界の各国も国連も会議を繰り返すだけであり、結局は国連軍による監視という形で停戦が成立したようである。そはさりながら、国連と言う形であっても戦いは軍隊という形をとるのでなければ阻止できないというのであろうか。
 しかも局地的な暴発を抱えての危うい停戦合意でしかない。

 「神よ!、彼らに破壊を・・・・」。 爆弾で子供を殺された母親が、遺骸に泣きすがって叫んでいる。

 「神よ!、あなたはまた人間の殺し合いを見たいのですか・・・」。この戦いに寄せて書かれた市民のブログの一節である(NHKテレビ8月5日、22時)。

 「平和のためには戦争ができなくてはならないのです」。イスラエルの指導者の声である。(8月2日のテレビ放映)

 こんな言葉を誤りだと論破することは可能だろう。理屈じゃなく単なる感情論だと無視することだってできるかも知れない。だがこうしたあからさまな血を吐くような叫びに、少なくとも私は答える術を知らない。

 平和を唱えることはたやすい。戦争の非や罪業を数えたてることだって容易である。いやいや答はもっと明らかである。「戦争と平和」とはそもそも始めから対立などしてはいなかったのではないのか。無名の大衆も歴史上のどんな人物も「平和を望むこと」について異を唱える者など一人もいなかったのではないのか。

 「願いは叶う」、「願えば叶う」、「強く願えばどんな願いも叶う」、「やる気があればできる」、「頑張ればできる」、我々はいつもそう教えられてきた。叶わないのは強く願わなかったからである。願う力の不足こそが叶わなかったことの唯一の原因である。叶わない願いなどどこにもないのだと人は子供の頃から教えられ、その願いにひたむきに向かうことで必ず実現するのだと教えられ信じ込み努力してきた。

 それにもかかわらずいつの世も、いつの時代も、大人も子供も、人々が戦争から逃れることなどできたためしは一度もなかった。願わなかったからなのか、それとも願う力が弱かったからなのか。自らの力をしぼりだすことを怠り、神に祈るような他力に逃げたからなのか。

 しかし人は、神にさえも復讐を祈り、誓い、自らの非力を嘆くことしかできなかった。

 「戦争に勝者も敗者もありません。戦争は地獄です」。戦後60年を過ぎて老兵は涙して自らの経験を語り始めたと戦後特集を組んだテレビは報道していた。その老兵の言葉に嘘はないだろう。
 だが、それとても多少の開き直りを許してもらえるなら、勝者の論理であり、生き残った者の驕りである。死んでしまった者に戦争を語ることなど不可能なのだから。

 敵国や敵兵の行為を「残虐」と言うのは簡単だ。他人を責め自らを正しさに置くのはやむをえない行為であろう。どんな場合だって、己の命を守ることは誰からも責められることのない、神からだって責められることのない絶対かつ正当な行為である。たとえその行為が相手の死を意味することになろうとも・・・・。

 「罪のない子供たち・・・」、戦争の悲惨さを人は時にこんなふうに表現する。その意味の分からないではないけれど、この言葉には罪ある者はその罪のためには犠牲になってもいいという伏線があからさまに含まれている。罪とは一体何なのだろうか。誰に対する、何に対する罪なのだろうか。

 平和を命がけで祈らなかったことが罪なのだろうか。「戦争は厭だ」と自国の戦車の前に己が身を投げ出さなかったことが罪なのだろうか。それとも大人になっていくこと自体が罪なのだろうか。

 そしてその罪を罪だと糾弾しその贖いを求める正当な権利者とは、神なのかそれとも人なのか、・・・それともそれとも、多くの爆弾を持つことでその地位を得たにこやかに微笑む勝者なのか。

 イギリスで史上空前と言われるほどの航空機爆破未遂事件が発覚し、搭乗者の手荷物などの検査が過剰と思えるほどにも厳しくなっている。
 今日の外国ニュースの特集で空港職員から「ターパンを取れ」と言われた男を報道していた。「ターバンの中に爆弾が隠されているかも知れない」からである。私はその職員の言い方や態度が無礼だったのかどうかそれは知らない。だが、爆破手段には見境がないから、ターバンを確認するという空港職員の判断は正しいと思えるのだが、言われた男は宗教的な偏見であり人種差別であると抗議する。しかもそうした検査官の行為に過激に反発する仲間も多い。

 かくも争いの火種はいたるところに存在している。北朝鮮は地下核実験を計画をしていると報道されているし、コンゴで、東ティモールで、パキスタンで、ネパールで、アフガニスタンで・・・、隣近所での騒音や悪臭にいたるまで今の世の中、互いを信じないことが当たり前になってきている。



                           2006.08.27    佐々木利夫


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終わらない戦争