スナックのカウンター越しにママと若いホステス、そして私と仲間との他愛ない話である。税理士なんぞと言う看板を背負ってはいるけれど、酔ってしまえばそこはそれ僅かなプライドこそ残してはいるもののそこいら辺の酔っ払いとそれほどの違いはない。

 そんな時、最近の若い男は頼りないという話になった。どの道、酒を飲みながらの少し下ねたががった話である。それほど真剣なものではないけれど、どうも普段から気になっていることと重なったものだからそれなりの話題になった。

 そうした背景には、私自身の抱いている男に対する理解の仕方がある。だからそのことを偏見だと言われれば返す言葉がないのだけれど、やはりいかに男女平等といわれているとしてもそこには基本的に男の役割、女の役割がそれぞれ別異なものとして生きることそのものの中に組み込まれているのではないかということである。

 例えば就職である。男は狩猟で女は出産育児などとという原始時代からの伝統は既に過去のものである。だから家庭や家族を支えるのが男で、それを守るのが女だと頭から決め付けてしまうのは間違っているかも知れない。だが、少なくとも我々の世代で職業を選ぶということことは、その背景に終身雇用のような社会的な基盤が定着していたからなのかも知れないけれど、その選んだ職業に生涯を賭けると言う意気込みを持つことでもあった。

 もちろんこの私だって高校を卒業するときに、公務員になること、それも税務職員として生涯を過ごすことを始めから覚悟し、それだけに集中して道を進んだわけではない。
 就職することが目的なのだし就職したくない職種の試験を受けることはなかったけれど、いくつかの就職試験を受けたのは事実である。だから複数の試験に合格したり他の就職に失敗したときにはその合格した中から職業を選ぶことになる。したがって税務職員としての道にはいわば偶然の要素もそれなりに含まれている。

 しかし、選択した職業を自分の道であると決めるのは男が仕事を選ぶときの覚悟でもあった。もちろん人生である。様々な出来事で思うとおりにいかない場合だってあるだろうから、就職先が倒産したり、自らが原因で解雇されたり、はたまた新しい道を選ばなければならない場面に出会うことだってあるだろう。

 それでも男の覚悟は、その選んだ職業で生き抜くことを自らに課すことでもあった。転職を繰り返すことや、ヘッドハンティングで引き抜かれることなどが一人前の男としてのステータスを示すものだという外国の話を聞いたことはあるけれど、少なくともこの身に関してはそれは違うのだと自分に言い聞かせていた。

 結婚し子供を育て、それなり安定した当たり前の生活を送っていくこと、そして、そうした中で歳を重ねていくことがむしろ男としての役割なのだと思っていた。

 今の時代はそれが変ってきたのかも知れない。年功序列や終身雇用があっさりと否定されるようになり、リストラと称する呪文のような言葉の前に、過去の努力も貢献もほとんどが価値を持たない時代になってきた。そんな社会の中で、自らの行き先を探しあぐねている男たちの姿は、今では中年よりも高卒や大卒などの若者へと急速に拡大しつつある。

 最近読んだ本である。
 「・・・何か発作的なんだけれど、全部投げ出したくなったりするんだよ。何か急に色んなこと考えたりしてさ。どうせこのまま面倒くせえ受験やって、かっこ悪いサラリーマンになって、馬鹿みたいに働いて、いらなくなったらクビになるんだろう?・・・」(中村文則、悪意手記P35)。

 彼は働くことに価値を感じていない。世の中馬鹿にして常識を軽蔑しているようにみえて、実はクビを恐れているなんぞは逆に常識にどっぷりと漬かっている姿そのものである。

 ただそれでも私はこうした最近の若者の姿を、現代の景気であるとか社会変化などに押し付けることには納得がいかないのである。やっぱり男には頑張って家庭を支えていくという気概を持ち、そうした役割を自らに課しながら人生を担って欲しいのである。
 女性の社会進出を否定するのではない。だが、どこかで男には女に向かって「俺について来い」と言えるようなそんな自惚れでもいいから誇りみたいな気持ちを持って欲しいのである。

 少子高齢化は単なる言葉遊びを超えて現実のものとなっている。原因は色々あるだろうし、国も地方もなんとかしなければと対策を立てつつある。
 このままの出生率が続けば、あとうん十年後には日本の人口は数十人だの数百人になってしまうだのとワイドショーは面白がっているが、そのことを「大変だ、大変だ」という論者もいれば、「そうなってどこが悪い」と開き直るこれまた識者もいる。

 政府もとうとう少子化担当大臣と称するポストまで作り、これまたなんとか審議会みたいなものを立ち上げ、我こそは世の中をリードする識者と自認する、それもかなりのご高齢の方たちを集めて結婚促進だ、子育てだ、育児休業制度だ、不妊治療だ、果ては女性の社会的地位の向上だなどと、かまびすしい議論が始まる。
果ては「性差」という語を使うのか「ジェンダー」という語にすべきなのかという、どこか本質から離れた議論まで騒がしくなってきている。

 だがこうした議論はなんだか他人行儀である。SF小説ではないのだから、試験管ベービーや人工子宮による管理出産みたいなことを考えるのでなければ、結局子供は結婚を通じて増えていくのが当たり前であろう。
 そうした時、政府や識者などの話しを聞いていると、結婚に対する基本的な考えがどこか違っているのではないだろうかと思うことがある。

 結婚は男と女の話である。男と女が結婚するのは政策とか社会環境とか将来の安定などというものと無関係ではないかも知れないが、それ以前に二人の男女が互いを好きになると言う基本があるのではないのか。

 結婚は恐らく種族保存と家系維持のために人間だけが作り出した一種の儀式であろう。男女が結婚するためには様々な要因があるとは思うけれど、今の時代少なくとも「互いを好きになること」がその基本にあることは東西を問わない共通項ではないだろうか。
 その場合に、頼りになる男の存在は家庭を維持し家系を継続させていくための必然となる。家庭の存続なくして家系維持もまた困難だからである。

 いつの間にか格好の良いスタイルや生き方や職業が高い評価を受ける時代になった。かつてスターや歌手は銀幕だけの存在でトイレにもいかなければ飯も食わない存在だったはずなのに、テレビの普及はいつの間にかこうしたタレントが普通の人とちっとも変わらない当たり前の存在なのだと繰り返し繰り返し教えてくれるようになった。

 格好良さへの希求は、そうした生活を実現するための手段としての拝金を助長するようになった。苦労せずに手っ取り早く金をもうける手段さえあれば、なんでも手に入れることができるであろうことは恐らく事実だろう。
 だが、望んでも実現できないことがありそれを我慢することや、身の程を知りそこに満足することが逆に格好悪いものとして位置づけられるようになった。それがなんと言っても現代の病弊の第一である。

 人は貧乏を知らなくなった。貧乏と分かちがたく結びついていた飢えを知らなくなった。若者は親の建てたマイホームの自分の部屋で一人で目覚め、シャワーを浴びてからパンとコーヒーの朝食を食べる。学校へは自転車で向かい、授業の合間に自動販売機でジュースを買い、帰り道に友達とコンビにで買い食いをする。

 そんなことが当たり前であることの背景を若者は知ろうともしない。当たり前であることにさえ気づいてはいない。こんな生活が若者には呼吸することと同じくらい当然のことになっている。
 もちろんもっと小遣いを欲しいとは思っている。だかそれは遊ぶための金が欲しいのである。携帯電話もパソコンも全部親がかりだけれど、バイクが欲しいとの思いを認めてくれずひたすら勉強しろと言い続ける親に不満である。

 一時期、ポップスの世界でミッシング(行方不明)という表現が流行ったことがある。ミッシングは若者の特権なのかも知れないけれど、どこかに逃避のイメージがある。それでもミッシングの中には他人から自分を隠すだけで、少なくとも自分の存在を知る自分だけはそこにいたのではないのか。

 人生は戦いだなどと自負するほどの生き様を送ってきたわけではないけれど、他者の中に自分の身を置くということは、それが職場であろうと家庭であろうと共に個としての存在のぶつかりあいだという実感くらいは経験してきている。

 自己確立などとすざまじい表現を不用意にしてはいけないのだろうが、もう少し存在感を自分の中に確かめてみる必要があるのではないだろうか。若者の頼りなさの背景にはそうした存在感の希薄さ、自分で自分を見つけられない危うさが潜んでいるような気がしてならない。

 メールでしか話せない若者、電車の通路に座り込んだり座席で化粧する女、連れてきた友達と背中合わせで別々のテレビゲームに興じる子供、もしかしたら、彼らには自分だけでなく他人の姿すら見えていないのだろうか。



                            2006.04.05    佐々木利夫


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頼りない男たち