一昔前のイメージかも知れないけれど、昼下がりの縁側で鼻めがねのおばあちゃんが柔らかな日差しを受けながらうとうとしている姿は、なんだかとってもあったかで平和そのものを教えてくれているような気がしたものだ。ましてや膝の上に丸くなった猫でも置けば完璧である。

 そうした映像を思い起こしすこと自体、自身がそうした年齢に近づいていることを示しているのかも知れないけれど、ひとりの事務所の誰に気兼ねすることもないうたた寝もまた至福の時である。

 本を読んでいたり、パソコンに向かってキーボードを叩いたりしていると、突然と言うほどではないのだが、「少し眠たくなってきたな」と感じることがけっこう多い。

 退職する前、毎日毎日仕事漬けの職場でそうした眠気の襲来があったかと問われればそんな記憶はない。今がそうなのは、一人天下の環境があまりにものんびりし過ぎているからなのか、それとも日向ぼっこのおばあちゃんの年齢に近づいてきたことを物語っているからなのか、どっちにしてもうたた寝の誘惑が多くなってきていることは事実である。

 ここは1人の事務所である。実は退職した当時、同じように自宅以外に事務所を構えた親しい仲間がいた。訪問して驚いた。あろうことかその事務室にはなんと作り付けの引き出し式ベッドが備えられていたのである。壁際から室内に倒すように引き出すとそのまま立派なベッドに早変わりするのである。

 いつ期限の迫った仕事に追われるか分からない仕事である。税理士なんぞと格好つけた肩書きを持ってはいるものの、クライアント(顧客)からは例えば決算や申告など、期限ぎりぎりまで迫らないと資料や情報などが届かないことは先輩などからくどいほど聞かされていた。しかも一人事務所とは、誰に任せるわけにも行かない所長・従業員・小使兼務のまさに一人だけの事務所である。期限は待ってくれないのだから徹夜仕事になることだって当然に覚悟しなければならないだろう。そのためには必需品のベッドだと彼はのたもうたものである。

 私だって仕事熱心さに関しては人後に落ちないつもりである。仲間が設置した作り付けベッドの哲学は我が事務所構想にも少なからぬ影響を与えた。狭いワンルームの事務室ではあるが、万が一の場合まさかにフローリングの床にそのまま寝るなんぞは思いもよらないではないか。この部屋にもベッドを備え付けることはできないか。

 そこまでの緊急な仕事があるかどうかは別である。万が一の備えである。仕事に対する意気込みは、単に精神論だけで済むものではない。徹夜できるような寝具や食事などの用意、税に関わる図書やそれを並べる書棚、更には仕事に対応したパソコンやプリンターなどなど、そうした具体的な形としての「物(ぶつ)」の存在も大事である。いやいや、形は意思の表れでもある。

 ところがこの備え付けベッドは工事費も含めるととても高価なのである。しかも見かけによらずスペースが必要で、けっこう大きな空間がとられてしまうのである。だが仕事への意欲は形で示すことでもある。仲間の抱く備え付けベッド哲学に触発された男は近くの家具屋を回ってずーんとお安い折りたたみベッドを置くことで自分に折り合いをつけることにした。

 そはさりながらこの折りたたみベッド、開業から8年を経た今日まで実は一度も出番がないのである。二つに折られたまま部屋の隅にベッドカバー姿をさらしており、その二つ折りの背にはタオルや本やウォークマンなどの日用品が所狭しと積み重ねられている。ベッドとして利用しようと思ったらそれらの整理だけで大仕事になりそうである。

 利用しない理由は、まあそれほど緊急な仕事のなかったことが第一ではあるのだが、我が事務所から自宅まではバスも地下鉄もJRも利用できて所要時間も30分とはかからないことにもある。そんな条件の下で女房にあらぬ疑いを持たれるような外泊(そんな甲斐性もないか)などもっての他ということでもある。

 おまけにある日昼寝に使おうとセットしてみたのであるが、荷物を片付けてベッドを広げ、さあ寝ようとしたのだが逆に目が冴えて昼寝のタイミングを失してしまったこともあって、うたた寝には向かないことが分かったことも利用機会のなかった原因の一つになっている。

 さて我が事務所は5階建ての小さなマンションの一階にあり鉄製ドア一枚が出入り口である。ドアの外には磁石入りのシートで作った札が貼り付けてあり、表に「在室」、裏に「不在」の表示をして使い分けている。ひっくり返して不在にして中からドアをロックする。電話は留守電に切り替える。さてこれで準備万端整った。

 机の上を少し整理しテレビやパソコンを消す。事務所を開くときに一番神経を使って購入したゆったり椅子に腰掛けて机に足を載せる。こうやって書き出すとけっこうな準備作業のように感じるかも知れないがどうってことはない。瞼を閉じる間もなくそのまま睡魔の中である。

 とは言ってもそのまま夕暮れを迎えたり夜中になったするようなことはない。せいぜいが30分、長くて小一時間程度の桃源郷である。

 最近の新聞記事で、寝つきの悪い人には「うつ」が多いとあった。だとすれば当面私に「うつ」が近づいてくる心配はなさそうである。
 うたた寝を楽しめるということは、結局は生活の全部がたとえぬるま湯の中にいるにしろそうした環境に安心して浸りきっていることの証左でもあると言うことであろう。それは誰が評価するのでもなく、自身が感じる贅沢であり癒しであり満足でありゆとりなのかも知れない。

 さて、うとうとすることと目覚めのすっきりさとはほとんど同義であると思ってはいるのだが、それにしても時には美女に囲まれた酒池肉林の夢の欠片くらい見せてくれてもいいではないかと、まどろみの中に男は少し不満じみた気持ちも抱いているのである。



                               2006.11.28    佐々木利夫


                 トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



うたた寝のしあわせ