今年もまた8月6日がやってきた。9日は長崎での原爆投下、そして15日は終戦記念日(終戦ではない、むしろあの戦いの結末は敗戦であった)である。被爆61年は戦後61年でもある。

 広島市長は今年の平和記念式典での宣言で、「(核廃絶を願う市民の声を)世界政治のリーダーたちは無視し続け」、「核兵器からの自由をもたらす責任は今や市民と都市にある。私たちが目覚めて起つときがきた。」と語った。

 だが数え切れないほどの千羽鶴を折り続け、平和と書いた灯籠を星の数ほど川へ流そうとも、核保有国は核保有への固執を少しも緩めようとはしない。しかもイランや北朝鮮など多くの国へと核は伝播していく様相を見せており、市民の力が核廃絶に結びつく気配など少しも感じられはしない。

 逆にテレビで紹介されるこれまで広島で開かれた核兵器反対の国際的な集会の時を追った映像を見ていると、初めのころの被爆者自身による激しい怒りや原爆に対する悲壮感などがどんどん薄れていって、こんな風に言ってしまうと主催者の逆鱗に触れてしまうかも知れないけれど「平和な集会」としてショー化してしまっているような気さえしてくる。

 危機もおぞましさも憎しみもドロドロした怒りさえも感じられないさわやかな集会である。そこには本来あるべき怨念さえも感じられない、つまり臭いさえもないさわやかなセレモニーが整然と続けられているのである。だからそこで述べられる宣言文も、推敲され贅肉を削ぎ取られ要点だけがきちんと並べられ過不足のないまるで有名仕出店の名物料理のようになってしまっている。

 最近における戦争や原爆に対する関係者の嘆きは、集約するなら「戦争の風化」である。被爆者はもとより戦争経験者そのものも高齢化し、否応なく時の流れの中でその姿を消していく。
 それは一面必然でもある。明治維新は遠くなったし、日清日露の戦いも既に歴史である。戦争体験ばかりではない。どんな経験も伝承も素晴らしい思い出さえもが、時間と言う絶対的な流れの中では望む望まないに関わらず風化していく。歴史とは風化の記録でもある。

 もちろん平和記念式典には数多くの若者や子供たちも参加している。恐らく被爆者の親族かもしくは広島在住者が多いのだろうが、小中学生や高校生の姿も多いし若者の姿を見ることもできる。

 だがテレビカメラを向けられた彼らの返事のなんと安穏としていることだろう。「原爆を許してはいけないと思いました」、「戦争を二度と繰り返してはいけないと感じました」・・・・・、なんだがありきたりのどこにでもある紋切り型の返事である。感動も感激も、感情すら感じられない、平和は既にこの世に実現しているような模範解答である。

 「平和を願う」とか、「原爆を許すな」とか言うのは、もしかしたらとてつもなく傲慢な、「人の驕り」なのではないのだろうか。100万円持っている人が1円や2円くらいは平和と言う賽銭箱に入れてもいいやと思っているだけのことなのではないのだろうか。平和の価値なんて日本人にとってそれくらいの意味しか持っていないのではないだろうか。

 こうした戦争や原爆に対する実感の伴わない日本人の意識は、朝日新聞に掲載されていた(8月6日朝刊)、「もし戦争が起きたら国のために戦うか」とする世界価値観調査2000からのデータ、そしてそのデータに対する記者の意見からも読み取ることができる。

 この調査は60カ国を対象に実施されたものらしいが、それによれば「戦争が起きたら自国のために戦う」と答えたのはベトナム94.4%、中国89.9%、イスラエル75.1%に対し、なんと日本はドイツの33.3%に次ぐ最下位、しかもその割合はそのドイツの半分以下の15.6%にしか過ぎないのである。

 一方、内閣府が今年2月に行った調査によると「日本が戦争に巻き込まれる危険性がある」と感じている日本人は実に45%にも及んでいるという(朝日新聞同欄)。
 朝鮮半島情勢が北朝鮮の7月のミサイル発射実験などで更に日本への危機感を募らせているから、こうした戦争の危険性を感じている人は最近ではもっと多くなっているだろう。

 この世界価値観調査2000は、そうした危機意識が現在よりも薄弱な6年前の調査だからこうした結果になったのだと見ることもできないではないが、それにしても他国民における国を守る意識と比べて日本人の意識の低さにはなんだか絶望みたいな気持ちまで抱かされてしまう。

 しかもこの記事を書いた記者はこうしたデータに対して、「日本は敗戦で不戦を誓った。この結果を『情けない』という必要はないと思う」と結んでいるのも同じように引っかかってしまった。

 こうした日本人の意識データを「情けない」と評価するのは本当に間違いなのだろうか。確かに日本は戦後の生き方について、憲法を頂点として不戦の誓いをたてた。軍隊も持たないと誓った。

 そのことはいい。たとえ憲法がプログラム規定だとしても過去の戦争の過ちを繰り返すまいと誓った国民の総意を否定しようとは思わない。

 だがこの価値観調査で「もし戦争が起きたら国のために戦うか」と問われた人が、不戦の誓いを胸に秘め確信を持って「戦わない」ことを選んだのだとしたなら、私は記者の意見に豪も異を唱えるつもりはない。むしろ誇りを持って「戦わない」とした日本人の選択を世界に向けて胸を張って主張してもいいとさえ思う。

 問題なのは、どうしてもそうだとは思えないとの感情から私が抜けきれないことであり、そうした思いがしこりとなって胸のどこかに残ってしまうことである。。「不戦の誓い」を心に決め、そうした覚悟で「戦わない」ことを日本人が選んだのだとはどうしても思えないのである。

 「国を守るために戦う」との決断は一つの意思である。たとえその決断がしがらみや戸惑いや虚栄から生まれたものであったとしても、戦う意思は己の命を滲ませた決断である。大げさに言えば命を賭けるとの決断である。
 そして「戦わない」とする決断もまた同じように一つの意思である。場合によっては戦うことよりも命がけの決断である。

 にもかかわらず今の若者たちの姿を見るにつけ、「戦わないこと」に対して日本人が「力による解決を望んでいない」とか、「無抵抗主義を信奉している」とはどうしても思えないのである。
 むしろ平和ボケと呼んでもいいほどに現在の安穏とした生活に浸りきって、我が身だけの安定を始めから与えられたもの、当然のこととして受け入れてしまっていることに満足しきっているような気がしてならないのである。単なる「戦う」ことのチェックを避けるためだけの便宜的な選択にしか過ぎないのではないかと感じられるのである。

 だとするならその選択はまるで異なった意味を持つことになる。他人任せ、責任はすべて自分以外のせい、そうした風潮が日本中にはびこりだしている。戦争の危機が仮にあるとしても、「自分とは関係のない他所の国の出来事」であり、「きっと起きないだろう」、「アメリカか政府か国連か、自衛隊か警察かどこか分からないけれど、誰かがなんとかしてくれるだろう」、そんなことをいつも考えているのではないかと思えるからである。

 それなら、この「戦わない」ことの意味をどうとらえたらいいのだろうか。
 答えは簡単である。「無関心」である。祖国に対する極端なまでの無関心さである。「戦わない」と答えた彼らの多くには祖国としての日本は存在していないということである。

 だから私はこの世界価値観調査2000は、解答欄に「無関心」というチェック項目を作らなかったという意味で意識調査としては根本的な間違いを犯しているのではないかと思うのである。

 それとも、それとも、そんな設問など、日本以外ではそもそも一笑に付されてしまうような項目として、馬鹿にされてしまうほどにも無意味なものなのだろうか。
 考えたくもないことだが、そんなら日本はこれからどこへ行こうとしているのだろうか。




                          2006.08.10    佐々木利夫


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