またぞろワイドショーネタの事件が起こり、それまでの殺人事件はおろか北朝鮮の地下核実験の報道までがすっ飛んでしまうような勢いである。
事件とは北海道と福岡県で起きたいじめが原因と思われている小中学生の自殺である。普通の事件なら犯人探しに躍起になるところだろうが、原因はいじめである。自殺した子供をいじめたのはどうしたって仲間だろうから、一義的には「そいつが悪い」と内心は思っているのだろうが、マスコミもなぜかそこには金輪際触れようとしない。
だから事件の矛先は、その自殺を防げなかったり、その事実を知りながら発表しなかった学校や教育委員会などへと向かっている。
それを受けて学校も教育委員会も、触発された政府も、こぞってこの対策に乗り出しすというパターンが繰り広げられる。そしてそうした機関の対策に対するマスコミの揚げ足取りの批判がいたちごっこで繰り返されている。
それには常に同じパターンがある。つまり学校などの対策はいつも紋切り型であり生徒の心を理解していないとするものである。
ただ、なぜかマスコミも居並ぶ識者と称する評論家もこうした学校などの対策に対する批判と「心が大切」みたいなことを繰り返すだけで、誰もが納得できるような各論を具体的に述べることは皆無であり、小中学生の自殺をわが子の自殺として理解しようとするような気配などどこにも感じられない。
私はこうした学校などでの対策に反対だというのではない。学校の対応が紋切り型だと言ったところで、幼くたって人の心にはそんなにたやすく入っていけるものではない。
ましてや、例えば現にいじめられている生徒がいたとして、いじめとはどういう状態を言うのか、その事実をどうやったら把握できるのか、そのいじめをどうしたら、どんな方法で解決できるのかは、お受験の「傾向と対策」みたいに一片のマニュアルで解決できるものではないだろう。
逆説めくけれど、わたしは「いじめ」と言うは子供も含めた人間の本質に根ざすものではないかと思っている。だからといって私はいじめを認めるというのではない。どんな場合でもいじめは相手の人格をずたずたに傷つける卑劣な行為だし、それにもかかわらずいじめる側にはそうした加害の意識の極めて希薄な行為だとも思っている。
人は人を好きになる。そのことは単に異性を求めるための生殖本能に根ざしたものなのか、それとも自分の意見に同調する仲間も集めて安全な環境を作ろうとする行為なのか、それとももっと異質なものなのか。それでも人はそれを大切なものとして育てていくことができ、場合によっては昇華させることができるように作り変えてきた。
いじめもそれと同じではないのだろうか。人が人を好きになるのなら、好きにならない人がいても不思議ではない。人が人を好きになるとき、その「人」というのは特定の人だろうから、それ以外は「好きな人」以外の人ということになる。少なくともそこには「好きな人」と「そうでない人」の明確な違いがある。
さて、そういう人の存在を認めるなら、「そうでない人」の中に「嫌いな人」がいたってなんの不思議もない。私にだってこれまでの長い職場生活、長い社会生活の中で、「好きでも嫌いでもない人」とたくさん付き合ってきたし、そんなに多くはなかったが「嫌いな人」だっていなかったわけではない。
人が人を嫌いになることを悪いことだと言ってしまっていいのだろうか。「みんな仲良く」は特に教育の場などでは定番セリフのように言われているけれど、本当にそうなのだろうか。
「以和為貴」(和を以って貴しと為す)は、聖徳太子が推古12年(西暦604年)に作ったとされる日本最初の憲法の、それも第一条の文言である。そしてこの言葉には更に「無忤為宗(さからうことなきをむねとす)」が続くのである。
つまり、日本最初の憲法は「みんな仲良く争わないで」と記されたのである。それから1400年、現行日本国憲法もまたその前文で「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」と高らかに理想を謳いあげた。
長い時を経たこの二つの文章に果たしてどれほと゜の違いがあるのだろうか。そしてこんなにも長い時を経て、どれほどそうした思いが実現されたであろうか。
大化の改新や鎌倉幕府や織田信長から徳川家康に至る戦国時代、そして日清日露戦争を経て第二次世界大戦、今に続く世界中の国際紛争などなど、恒久平和とはミッシング(行方不明者)の訳語なのだろうか。
「みんな仲良く」は日本人に染み付いた精神的な基盤かもしれないけれど、それでもその中に自立のための闘いを含めて考えていかないことには、単なる他者への迎合の中へと埋没してしまうことと何ら変らないのではないだろうか。
人が人を嫌いになることを事実として承認し、そのこともまた人であることの証であることを認めないと、いじめは決して解決しない。
その上で、いじめに耐える力、自らがいじめに回りたい欲望を抑える力を持てるように自分を育てていかないと、これからもいじめによる自殺はなくならない。
「私はあなたが嫌いだ」、「嫌いな人からは遠ざかりたい」、そのことを「良いこと」とか「悪いこと」のレベルで判断してはならない。大人になったあなたなら、そこんところはうまくごまかしてその人と付き合っているかも知れないけれど、それはまさにごまかしでしかない。「嫌い」なのは「理屈抜き嫌い」のはずである。それが正直な気持ちである。
いじめる側がいて、いじめられる側がいる。いじめはいじめを受ける側の心の問題でもあるから、何をもっていじめと定義するかは難しいところだろうけれど、どんなところにもいじめは確実に存在する。
文科省の調査によるといじめによる自殺はないとのことらしいが、それは間違いである。いじめは必ず存在するし、年間三万人にも及ぶ日本人の自殺の中には、いじめによるものも必ず存在する。
いじめた側が責められることは恐らく少ないだろう。現に矛先は学校や教育委員会へと向かっているし、第一いじめた側はいじめたことを否定するだろうし、いじめを客観的に証明することも困難だからである。
しかもいじめの犯人を突き止めたところで自殺した子にとってそれは何の意味もない。いじめた子になんらかの制裁が科されたにしろ、自殺に見合うだけの制裁などあるはずがないからである。
自殺が続くような気配がある。無責任な言葉になるかも知れない。「死ぬより辛い」という気持ちの分からないではない。だが自らの抹殺はいじめに負けたことである。流されることなく耐えること、そして解決に向かって立ち向かうことが、いじめに対するどうしてもやらなければならない意思であり、そうした乗り越える強さを持って欲しいと願うばかりである。
そして周りの人間が、無いように見えてもいじめは必ず存在することを前提にしない限り、社会がいじめに真正面から向き合うことなどできはしない。
なぜなら、いじめは人の本質に根ざすものあり、耐えること、そうした気持ちを抑えようとすることはできるとしても、決して消し去ることなどできないのだから・・・。
2006.10.20 佐々木利夫
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