天気予報がいつの間にかニュース番組の定番に位置するようになり、加えてどんどんショー化していっている。明日の天気がどうなるか、今度の日曜日は晴れか雨か、台風は来るのか・・・、解説者もアナウンサーから気象予報士へと役割を変え、天気図も気圧の等高線表示から様々な天気や台風、風、嵐などなどのアイコンが工夫されてきて画面を賑わせている。

 そうしたショー化の影響なのか、それとも予報の本家である気象庁の発表そのものがそうなってきているからなのか、注意報や警報の呼びかけがやたら多くなってきているような気がする。
 しかもそれに加えて恐らくテレビ局なり気象予報士のオリジナルなのではないかと思われるのだが、紫外線予報だの布団干し・洗濯日和・花粉状況などと言った場合によっては余計なお世話だよと言いたくなるくらいの情報も加わり、その上十二節季から俳句の季語までまじえて話しだす天気予報は、なんだか本来の役割からどんどん離れていっているような気さえしてくる。

 秋は台風のシーズンである。地球温暖化が原因だと断定するにはまだまだデータ不足のようだが、世界的に異常気象が頻発するようになってきているし、日本もどうやら例外ではないようである。
 だからこそ必要なのだと言われてしまえばそれまでなのかも知れないけれど、やたらと警報や注意報が出されることが多くなってきているような気がしてならない。
 しかもそうした警報に対する検証結果が、内部的には当然なされているのだろうけれど、いわゆる国民というか市民に知らされることは皆無に近い。

 つまりは警報・注意報はまるで垂れ流しのように氾濫するばかりである。予報なのだから必ず当たるとは限らないだろう。むしろ俗説では昔から天気予報は外れるものだと相場が決まっていたと言ってもいい。

 だが、一番当たる天気予報とは「明日の天候は今日と同じでしょう」だと言われていたような昔の話ではない。人工衛星で空の上から雲の動きを眺めることができ、スーパーコンピューターを駆使してデータ解析をする時代である。予報の精度も格段と上昇してきている。

 ただそうしたこととは裏腹に、こうした警報・注意報の垂れ流しは、予報の精度が上がってきたから出せるようになったと言うのとは別の意味を持っているような気がする。

 それは思い過ごしかも知れないけれど、「責任回避」である。大雨や台風などで河川の氾濫やがけ崩れなど、生活に密着する被害が多発するのは山肌が迫り急流の多い日本の地形から来る必然的な特徴かも知れない。そうした事情があるからこその警報が必要だと言われればそれまでである。

 しかし毎日のように繰り返される警報注意報の多さは、そうした警報が万が一に備えての言い訳になっているのではないかと、これまた下種のかんぐりを誘発してしまうほどにも乱発されているのである。
 そしてその乱発の原因が「きちんと警報を出していたのだから、被害が発生したとしてもその責任は警報への注意を怠っていた自治体なり個人の責任である」との言い訳につながっているような気がしてくるのである。

 最近の日本の社会はこぞって責任の所在を要求するようになってきている。「社長を出せ」、「責任者を連れて来い」は、一時代前のやくざもどきの言いがかりのセリフだと思っていたのだが、今の時代、人身御供をださないと一件落着しない風潮が頻発している。

 ある事件が起きたとき、一番大事なのは「これからどうするか」だと思うのだけれど、社長退陣であるとか役員の報酬カットなどなど、犯人探しや誰の責任かという視点にばかりニュースや情報の矛先が向き過ぎているような気がしてならない。

 例えば大雨が降って川が増水し、中州でキャンプしていた人たちが避難できなくなって自治体職員などに救助されるケースなどがある。そうした時、被災者の選択した行動よりも、「大雨警報が出ていたにもかかわらず」とか「警報は未発令だった」ことなどがことさらに強調されて報道されることも気がかりの一つになっている。

 だからそうした風潮に対して、気象庁としても災害などが起きる前に警報を乱発することで責任を回避しようとするようになってきているのではないかと思われる節がある。

 調べてみたところ、警報には大雨・洪水・大雪・暴風・暴風雪・波浪・高潮など様々な種類があり、注意報にいたっては大雨・大雪・強風・風雪・濃霧・雷・乾燥・なだれ・着氷・霜・低温・融雪・波浪・高潮などやたらと多くなっている。

 しかもその基準は地域によって異なると言う。それはそうだろう。北海道で冬に20センチや30センチの雪が降ったところで当たり前の現象だろうが、東京でなら大災害の前触れになるだろうし、もしかしたら沖縄などには雪に関する警報と言った言葉そのものがないのかも知れない。
 にもかかわらず天気予報はそうした情報を、せいぜいが日本を3つか4つに分けて、どかんと視聴者にしかも大量にぶつけてくるのである。だから毎日の天気予報はいつもどこかで警報・注意報が出されっ放しなのである。

 予報とは近い未来の予測である。だから必ずその結果を確かめることができるはずである。予報した地域に大雨が降ったのか、そのことで河川の増水がどの程度あり、災害の危険に近づいたのか、現実に災害が起きたのか。
 警報が未然に被災を避けることに役立った場合もあれば、単なる脅かしに過ぎなかったようなケースもあるだろう。だがそのどちらもが貴重なデータである。そうした上で確度の高い情報に絞っていく、そうした努力が必要なのである。

 だが、こうした気象情報の発信者は、警報も注意報もはたまた洗濯日和の情報も、視聴者には同じレベルでしか伝わっていないことに気づいていない。
 もちろん台風が目の前にあって家の周りで強風が渦まいている場合などには違うだろうが、情報の氾濫はその判断能力さえも麻痺させてしまう。

 そんなふうに思うのは、単に警報の多さだけによるものではない。そうした警報注意報の検証結果が国民にほとんど知らされていないことにも原因がある。

 もしかしたらその点が一番の問題なのかも知れない。「情報は多ければ多いほどいい。なぜならそれを聞いた人々の選択肢が広がるのだから」と思い込み、「その中から何を選びどう行動するかは、結局受け手たる個々人の責任だ」、そんな風に発信者は思い込んでいるのではないだろうか。

 天気予報だけに限るものではない。必要な情報を必要な人たちや機関などへ的確に伝えること、そうした明確な意思を持って情報を取り扱っていくことに発信者は気持ちを向けていかないと、溢れる情報に人は情報を信頼しなくなる。

 大切な警報や注意報が警報・注意報としての意味を果たさなくなっていく。「たくさん知らせること」、マスコミも企業も自治体も、それが情報伝達の正しい姿なのだとどこかで誤解しているいるのではないのか。垂れ流すことが「人々の知る権利」を満たすものだなどと勝手に思い込んでいる情報の発信者が、余りにも今の時代は多いのではないか。
 そして受け手たる国民もまた、それが情報伝達のあるべき姿なのだとどこかで思い込んでいるのではないのだろうか。

 インターネットも含めて情報の洪水の只中にいながら、逆にその場所があたかも台風の目でもあるかのように結局は情報の空白地帯、麻痺地帯になっているのではないか、そんな風に思ってしまうのである。



                          2006.10.12    佐々木利夫


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