川端康成の「雪国」との最初の出会いは、読んだのではない、読まされた記憶である。確か中学生の国語の授業時間だったろうか。川端康成という名前くらいは知っていたものの、まだ文学というジャンルにはほど遠い幼さだったから、いかに著名な作家の作品とは言えこの小説も読んだことなどなかった。

 「國境の長いトンネルを抜けると雪國であった。夜の底が白くなった。」で始まる、あまりにも有名なこの小説も、宝島だのロビンソンクルーソーなどが物語だと思っていた私にとってはまだまだ遠い世界であり、ましてや「・・・結局この指だけが、これから會いに行く女をなまなましく覺えている、・・・・」なんぞというすさまじい表現の理解などに届くのは、ずっとずっと後になってからのことである。

 教科書に載っていたのではないような気がしているから、先生から渡されたプリントだったのだろうか、いまだに記憶している一節がある。それは教室で音読させられ、その情景を説明しなさいというものだった。

 「鏡の底には夕景色が流れてゐて、つまり寫るものと寫す鏡とが、映晝の二重寫しのやうに動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いてゐた。」

 読まされた文章はもう少し長かったような気がするのだが、先生から作者の思い描いた情景を説明しなさいと問われた。ここは作品の中でもひときわ叙情性の高い部分であり、その美しい表現は日本を超えて世界に理解されていると伝えられている部分でもある。先生はそうした薫り高い文学の片鱗を、少しでもやんちゃな生徒たちに伝えたかったのかも知れない。

 にもかかわらず、そうした香りは残念なことに私には届かなかったようである。何か答えたような気はするのだが、見当違いの答であったことだけは、他の生徒の回答を聞きその意見が正解だと分かり自分が間違っていたことをすぐに理解できたことから、今でもはっきりと思い出すことができる。当時の私には作者がどんな場所で何を眺めているのか、何を言おうとしているのかまるで見当もつかなかったのである。

 答えられなかっただけのことだったら、この歳になるまで記憶に残るようなことにはならなかったと思う。先生に当てられて答えられないなんてことは、私にとってそんなに珍しいことではなかったし、それほど恥ずかしいことでもなかったからである。

 正答に届かない私を残して先生の指名は次の者へと移る。女の子であった。その彼女がこんな風に答えたのである。「作者は列車の座席に座り、窓に写る車内の風景と外を流れる窓越しの景色とをだぶらせているんだと思います。」

 口惜しかったのだと思う。なぜなら、言い方はこんなに流暢ではなかったかも知れないが、彼女の答が私にはすぐに正解だと理解できたからである。そのとおりだと思えたからである。その女の子の顔も名前も今となっては思い出せないほど遠い昔の話しではあるが、それが川端康成というノーベル文学賞受賞作家の、それも「雪国」という著名な作品との始めての出会いであった。

 そうした口惜しさが引き金になったのか、それから何度この小説を読み返しただろうか。島村と芸者駒子との辛い恋の物語は、川端康成という名前を聞くたぴに、雪に埋もれた温泉の風景を見るたびに、雪を巻き上げてトンネルを抜ける列車風景などの映像を見るたびなど、私の中で折に触れて甦るストーリーとなった。

 小説「雪国」は最初に発表したストーリーから比べると作者自身がどんどん補筆・加筆していったものらしく、現在の作品はかなり長編化されているとの話を聞いたことがある。
 「雪国」がそれなり好きな作品であるとは言っても、そうした経過をきちんと追いかけたいと思うほど私は川端文学に傾倒しているわけではない。

 だからこんな風に言うのは間違っているのかも知れないけれど、駒子だけを追いかけていた私の雪国のイメージの中へ、いつとはなしに葉子の陰が少しずつ侵食してきているような気がしてならない。

 ・・・・葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美しい目をつぶつてゐた。あごが突き出して、首の線が伸びてゐた。火明かりが青白い顔の上を揺れ通つた。
 幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫(ふる)へた。


 「雪国」は島村と駒子との物語である。そのことがあまりにも強く頭に染み込んでいるからなのか、読んでいるときは葉子だと分かっているにもかかわらず、小説の冒頭で「駅長さあん、駅長さあん」と叫ぶ「悲しいほど美しい聲」の主を、ついつい駒子と錯覚してしまう。

 だが幾度となくこの物語に触れるにつけ、もしかしたらこの物語の中で川端康成は駒子ではなく葉子を書きたかったのかも知れない、いやいや「雪国」はそもそも葉子の物語なのかも知れない、もしかしたら川端康成が作品をどんどん補筆していったのは葉子を膨らませたかったからなのかも知れないなどと、最初の出会いから50年以上も経たこの頃になってそんな気がし始めてきているのである。

 私の持っている「雪国」は現代日本文学全集(筑摩書房)37巻、川端康成集に収録されているものである。発行日は昭和30年11月5日とある。
 この本も私と共に老いてきているが、葉子の呼び声は今も変わることなく耳を澄ますと聞こえてくるようである。



                          2006.7.30    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



「雪国」との出会い