北国でも夏になるとアジサイが一段と賑わいをみせるようになる。特に雨上がりの青いアジサイは格別である。アジサイの花言葉は花の色そのものからくるのだろう「移り気」が有名であるけれど、そのほかにも「高慢」、「無常」、「忍耐強い愛」など様々だと知った。

 アジサイについてそれほど知識を持っているわけではないが、学名が「オタクサ」であることは何かの本で知っていた。由来はオランダから来て日本の医学に大きな影響を与えたシーボルトにあるという。シーボルトは鎖国時代に長崎にオランダ商館員の医官の一人として来日していた。彼は確かドイツ人のはずだからオランダ人として来日した背景にはなんらかの偽装工作が必要な事情があったとは思うのだが、残念ながらその原因や理由などについては解明できなかった。

 彼は日本の動植物を数多くヨーロッパに紹介している。その彼が長崎の出島で暮らしていたときの日本人妻(愛妾)の名が「楠本滝」であり、帰国後に彼女を偲んでアジサイに「お滝さん(オタクサ)」と名づけたのだと伝えられている。彼女はどうやら花柳界の女性だったらしく、後年植物学者牧野富太郎博士が花の名前に花柳界の女性の名前をつけるなど言語道断と不快をあらわにしていたとの逸話もあるらしいが、ここではあまり追求はしないことにする。

 さてそのアジサイの変化する彩りも夏の陰りと同時に、しとしとと降る雨の訪れが間遠になるからなのだろうか、いつの間にか精彩を欠くようになる。
 このアジサイの花の行末を私は知らない。だが私の見る限りこの花は散らないのである。散らないまま花びらが変色していくのである。生きていることをあからさまに示しているような青々とした鮮やかさも、どこか儚げにひっそりとしたピンクの花弁も、盛りの季節を過ぎるといつの間にか白く色あせやがて汚れた茶褐色へと濁っていくのである。そしてそれでも花はかつての花の形に執着したまま決して散ることはない。つまりアジサイはアジサイの形のままに腐っていくのである。

 もっとも花といっても花びらに見えるのはいわゆる装飾花と呼ばれる蕚(がく)であり、本来の花は中心部で小さく目立たなく咲いているのではあるけれど・・・。

 「美しく老いる」という言葉を知らないではないけれど、「老残」の語もある。私はこの薄汚れたアジサイになぜか老残のイメージを見てしまうのである。

 現実に人としての老いを美しいと表現する要素には、話し方や知性や態度、そして表情などなどその人の過去をも含めた多くの歴史が含まれるであろう。
 過ごしてきた年輪を思わせる眼の輝きやしっかりとした考え方、老いてなお未来を見据える力強さに、抽象的な美しさを感じる例がないとは言えない。

 だが老いの多くは老斑や深い皺やヨタヨタ歩きや余りにも無造作な身づくろいや病気や痴呆などなど、無残とも呼べるほどにも美しさからは次第に遠くなっていく。
 NHKの地方局が制作している番組の中に「百歳バンザイ」というのがある。元気な老人を取り上げたユニークな番組だが、その人気を支えるのはやっぱり「元気」、「しっかり」を基本にした百歳の姿である。ただそれにもかかわらずそしてそれを老醜と呼ぶのは的外れで残酷だと知りつつも、そうした元気を超えてなお老いている現実の姿の隠すべくもない。

 何をもって「美しい」と言えるかの評価が、単なる顔の美醜に限るものでないことくらい分かっているつもりである。それは10代ギャルのはちきれるような若々しさだって、赤ん坊の肌の張りやつやとは比すべくもないことからだってはっきりと分かるだろう。
 そうは言っても老いの現実は加齢とともに変化する顔の変化にともすれば代表され、影響されてしまう。それは見れば分かるからである。見ただけでその人の年齢が分かってしまうからである。
 アナウンサーなどがテレビで「お若いですね、とても〇〇歳にはみえませんね」などと慣用句のように老人に乱発しても、私はその老人が100歳に近いであろうことは見て分かるのである。たとえ100歳が90歳に見えようとも、30歳が20歳に見えるのとは意味がまるで違うのである。

 日本人があっと言う間に散ってしまうさくらを愛でたのには、見る人に対するこうした老残の余地を与えない桜の散り際の潔さに気を巡らせたからなのかもしれないと、ふと感ずることがある。

 最近「踊る老人病棟」(著者 岸 香理、青春出版社)を読んだ。看護師出身の著者の認知症老人とかかわる姿は常に暖かである。大きな活字で読みやすかったこと、そして文章も内容もそれなり面白かったこともあって一晩で一気に読み終えてしまった。

 そうした著者の姿勢にどうのこうの言いたいのではない。ただどんなふうに善意に、そしてどんなにあふれるような思いやりの気持ちで接したとしても、入院している認知症老人の老いの姿は残酷である。
 食べることも、徘徊することも、排泄も、盗癖も、妄想も、暴力も、なんでもかんでも口に入れてしまう性癖も、著者はあっけらかんとまるで魔法のように陽気な話題へと変化させてしまう。

 だがその語っている一つ一つはとても陽気な話ですませられるものではない。昔、中学生の頃だったろうか、国語の授業で「傍観者の利己主義」という言葉を知ったことがある。だれの言葉なのか、先生の作り出した言葉なのか、その言葉の出てきた場面も含めてすっかり忘れてしまっているけれど、この「傍観者の利己主義」という言葉だけはなぜかどこからか頭を持ち上げてくる。

 そして文中の先輩ナースが著者に言ったとされる言葉、「(食事の介助で)こうでもしなきゃ、時間がないのよ。なにせ食べさせなきゃならない患者さんは、30人以上いるんだから。ナースは5人しないないっていうのに・・・」(p57)、「(見舞いの親族がそこまで来ている)今はみえるところだけでいいのよ。耳そうじなんて後、後。エ? 耳アカが穴からはみ出てて、見えるって?、帽子で隠しなさい」(p85)など・・・、そんなセリフがなぜかしみじみとした実感をもって迫ってくるのである。

 ただざっくばらんに言ってしまえば老人病棟の話も、私にとって結局は他人事(ひとごと)である。テレビの百歳バンザイも同様である。考えて見れば「老人」そのものの話題だって他人事だと言ってしまえばそれまでだし、事実ほんの少し前まではその通りだったのである。

 それはそうなんだけれど、そんな話題にたかが茶色に変色したアジサイを見ただけで引っかかってしまうのは、それだけ「老い」が身につまされる世代に我が身自身が近づきつつあるということなのだろうか。どうやら傍観者と言いながらも利己主義に固執するほどの気持ちの余裕が私にはなくなってきているようである。



                                 2007.8.21    佐々木利夫


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腐ってゆくアジサイ