老いていく思いというのは、どこかで自分の足跡を残したいという思いへとつながっていくのだろうか。日々を繰返して否応なく年齢を増やしていくと言うことは、やがてたどり着くであろう我が身のターミナルを確認する作業でもある。
 そうした時、自分が生きてきた足跡を何かの形で残したいと人は考えるようになっていくものなのだろうか。

 私が老いるということは、仲間も共に老いることと同義である。仕事に旅行に、仲間それぞれも己の人生に一生懸命である。そうした一生懸命にやっていることに対し、手段であるべき様々の行動が時に当人にとっての生きることの目的にでもなっているかのように思えてしまうのは少し考え過ぎであろうか。

 人は多く名誉を求め金を求め地位や権力を求める。そうした様々を、「人間とはそもそもそういうものさ」と内在する人間としての基本的な性格みたいに思い込んでいたのだが、そんなにあっさり割り切ってしまうのはどこか間違っているのではないかと、最近思うようになってきた。

 海外旅行に熱心な仲間がいる。観光パンフレットで宣伝されている国ならほとんど回ったと豪語するくらい、毎年毎年熱心に成田通いを続けている。
 ところが旅行した国の名前はそれなり増えていくのだが、どうも旅の記憶というか内容については国名段階のイメージのままそこで停まってしまっているような気がしてならないのである。
 例えばそれは「全国の都道府県全部を回ろうとすること」と同じであり、〇〇県は行ったことがないから今年の計画に加える、××県もまだ見てないから来年の計画に組み入れると言うことと大して違わないような気がしているのである。

 都道府県の全部をくまなく回ろうとすることが旅の目的としてふさわしくないと言っているのではない。ただ、「群馬県へはまだ行ってない」と言うそれだけを旅の目的とするのはどこか違っているのではないかと思えてしまうのである。

 それは私自身がそうした思いに囚われていた過去を持っているからそう思うのである。私が若い頃、東京で一年がかりの研修を二度ばかり受けたことがある。そのとき始めての東京住まいだから、東京都二十三区全部に自分の足跡を残そうと考えたことがあった。そして一年がかりで実行しどうやら完遂することができた。ところが「大田区に足跡を残す」ことのために、例えば大田区内にあるどこかの駅で降りてその地区を一時間ほどかけて散歩したとしよう。それで大田区は完了である。確かに目的どおりに大田区に足跡を残せたことになるのである。

 だがそれは私にとってのそれだけのことでしかなかった。二十三区全部に足跡を残したという記憶は残ったけれど、大田区のどこを歩き、そのときその場所に何があったのか、そこで何を食ったのか、歩きながら何を感じたのかなどなど、足跡に伴って記憶されたはずの思い出が何一つ残っていないのである。

 私にはそうした索引というか目次みたいなものにこだわる癖がある。例えば日本酒が好きで色々飲むのだが、特定の銘柄にこだわると言うことはほとんどない。新しい銘柄の酒があればそれが美味いのかどうかは二の次にして、「まだ飲んだことがないから選ぶ」ことが多いのである。
 食堂で、居酒屋で色々なメニューが並んでいる。そのときに注文する基準は、どちらかというと「今まで食べたことがない」であるとか「始めて聞いたメニュー」になってしまうことが多いのである。

 だから酒も料理も新しい銘柄などへと飛びつものだから、結局今飲んだ酒、今食べた料理などに抱いた味わいや美味さを、後々までの記憶として残しておく必要性がどうしても乏しくなってしまう。せいぜいがその銘柄であるとか料理名がかすかな記憶の痕跡として残るのみであり、その記憶としたところで後々役に立つわけではないものだから、いずれは忘却の彼方へと押しやられたしまう。

 もちろん酒の銘柄にしろ、料理の名前や内容にしろ、はたまた食べた果物の名称や下車したJRの駅名、訪れたことのある温泉名などなど、そうした己れの記憶を手帳に書き込んで残しておくことは可能である。
 ただそうした記憶をメモとして羅列しておくことに何の意味があるのかと思うようになってきたのである。

 そうした自己の経験を羅列的、機械的に残しておくことの意味は何か。記憶のメモはあくまでも自分のためのものである。その羅列を他人に見せて自慢するために残しておくものではない。そのメモから浮かんでくるであろうその経験をしたときに抱いた自分の様々な思いを大切にしたいからである。

 時にそうした記憶の羅列を歴史的な事実として後継者へ残す必要がある場合が考えられなくもない。何の目的もなく気まぐれで撮ったスナップ写真が、後世になって歴史的な価値を持つようになる場面がないとは言えないだろう。
 それでも記憶はあくまで自分のものである。自分の評価を通してのみ、その記録から浮かび上がる記憶は追憶そして思い出としての意味を持ってくるのではないのかと思うのである。

 私はそうした写真を残すことやこなした仕事の数を増やすこと、通った温泉の数を競うことなどが間違いなのだと言いたいのではない。年齢とは時間の積み重ねである。そして時間の長さは経験の長さであり経験してきた様々の数そのものでもある。だから歳をとるということは、経験を積み重ねてきたことでもあるのだから、そうした経験の実績を数としてカウントすることも経験してきた様々を示すことになるのだと言ってもいいだろう。

 だからそうした経験の記録はそのまま年齢の証であり実績でもある。そうした実績、例えばそれが数にしろ名誉にしろ権力にしろ金の多さにしろ、そうしたものを示すことで人は己の生き様の証明にしよう思うのは、裏返せば他者に対して己の生きてきた過去が無価値な人生ではなかったことの証明になるのではないかと思い始めたことにつながるのかも知れない。

 老いはどうしても消え行く前の頼りなさに囲まれており、創造の意欲は若者に独占されがちである。せめては過去の記録に囲まれることで自身の存在を確認したいと思うのは老いてゆく者の切ない執着なのかも知れない。

 こうした私のホームページへ発表したエッセイも360本を超えた。いつまで続けられるか、想いがきちんとこもっているのかなど心もとない限りではあるけれど、これもまた私の足跡の一つであることに違いはあるまい。

 今は週に2本くらいのベースで発表しているのだが、駄文とは言え文章を仕上げるというのはそれなりしんどいものがある。自分で自分に科したノルマなのだし、そのノルマに違反したからと言ってペナルティが科されるわけでもない。さりながら少しずつ増えていく目次を眺めていると、そうした書くこと、発表すること自体が目的になってきているような気さえしてきている。

 何かにこだわることを「〇〇症候群」とか時に「××依存症」、「脅迫神経症」などと呼ぶらしいが、私もそうした範疇に入り込んできているのだろうか。

 子供の頃は明日のことさえ考えることはなかったし、若い頃の将来とは未来と同義であり、それは同時に無限の時間を示していたものだ。だが人は確実に老いてくる。老いを感じてくると未来とはそんなに遠くものではないのだということが次第に分かってくる。

 老いの極限をそんなに厭だとは思わないし、時に老いることもそんなに悪いことじゃないと思ったりもするのだが、人は老いてくると、短くなってきた未来に呼応するかのようにどこかで自分の歩んできた足跡を残したくなってくるのかも知れないと、ふと思ってしまった。

 だとすればその足跡は単なる歩いてきたことの羅列に留めておくのではなく、少なくとも想いのこもった軌跡として育んでいってほしいものである。そのためには記録を作るその時々の中に想いを込める努力していかなければならないのではないだろうかと思うようになってきている。
 それは「残る」とか「残す」とか「評価される」ことを目的とするものではない。今を生きていることのあからさまな事実を自分自身に確かめるための必要な手続きではないかとも思っているからである。



                          2007.8.3    佐々木利夫


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