希望すれば全員が大学へ入学できる時代が目の前に来ているという。そのことは例えば大学側にとってみれば生徒の質の低下という問題に止まらず、入学希望者の偏在の問題がそのまま生徒数の減少につながることを意味するから、経営という面からも重大な意味を持つことになってくるだろう。
 そうした傾向は既に受験生の減少やセンター試験受験者の減少などに表われはじめており、大学も合併や統合などなど対策に必死である。

 ところで「大学全入時代」との名称の存在は、今や大学が希望さえすれば誰でも入ることのできる時代になったことを示している。
 そうした言葉を聞くにつけ、あぁ豊かな時代になったんだなとの感慨とともに、どこか大学という晴れやかで憧れと輝きに満ちていたイメージがどことなく低下してしまい、薄汚れた感覚が忍び寄ってくる。

 私は大学へは行かないまま公務員試験を受け、税務署という職場を選んだ。そのことを特に残念だったとは思ったことはない。私が高校を卒業する当時、大学へ行く生徒は豊かな家庭のほんの一握りだったし、それこそ大学進学は例外中の例外で選ばれた生徒だけが行ける手の届かないものだったからである。我が家に大学へ行けるだけの経済力もなかったのはよく分かっていたし、その経済力のないことを責めたり悔やんだりしたことすらなかった。まあ、自らの学力を棚に上げての話だけれど、高校を卒業して就職することが普通の家庭の普通の子どもにとって至極当たり前のことだったということでもある。

 だから大学は「行きたいけれど行けない」とか「行けるなら行きたい」というのではなく、「行かないのが当たり前」の存在だった。ただそうは言っても見果てぬ夢のまま遠くに燦然と光り輝いていたことは事実であつた。いつか行けると思ったわけでもなければ、そのうち行ってやるぞと覚悟を決めるようなものでもなかったけれど、届かない憧れみたいに輝いていたのは事実である。

 そうした輝きが今の時代、いつの間にか大学から失われてしまったのだろうか。私たちの目に大学は遠いから光り輝いているように見えただけだったのだろうか。それが誰の目にも届くまで降りてきたという現実がそうした輝きを失わせることになってしまったのだろうか。

 そんな「行かないのが当たり前」と思っていた私に突然、大学へ行けるかも知れないというチャンスが巡ってきた。それも全入できるような駅弁大学(失礼)ではない。私にしてみればまるで夢とも幻とも思えるような国立大学の東京大学か一橋大学かというチャンスであった。

 それは職場の研修制度の一つであった。全国から20名が東京へ集まり一年3ヶ月をかけて大学での一年間の聴講、そして租税に関する論文を一本仕上げるという制度である。札幌からは数年に一人という難関ではあるけれどそうしたチャンスを手をこまねいて見過ごすのは余りにも口惜しいではないか。既に職場に入って15年、30歳半ばに達した私にとってこのチャンスに恵まれることなど、あり得ないほどの確率かもしれないけれど、大学で学ぶという夢が現実になる可能性が僅かにもしろ目の前にあるのである。

 研修の開始は4月からだと聞いたし、その採否の決定は3月だという。しかもこれは試験による合否で決まるのではなく、人事課による内部的な推薦だというのである。試験ならば願書を出し合格のための努力を続ければいいだろうし、希望者を募るのならば応募用紙に書き込むことで挑戦の第一歩を始めることができる。だが本人の知らないところで決定される推薦というシステムには、どうしたら挑戦することができるだろうか。

 無謀な行動に出た。当時私は札幌国税局にある一つの課の職員であった。研修生の決定は税務署や国税局の中枢機関である東京の国税庁で決定されるらしい。札幌国税局から推薦があってはじめて候補者になることができ、そうした推薦の中から全国規模で選ばれなければならないのである。その推薦はいつなのか、そんなことすらも分からない。でも3月に決定されるのならば札幌からの推薦は1月か2月か、少なくとも12月よりも前と言うことはないだろう。よし、決行の時期は年内だ、密かに内心決意した私は12月のある日、所属の課長に人事課に対してその研修への推薦をしてもらえるよう頼んでくれないかと直訴に及んだのである。

 確かに無謀である。第一この研修は単なる希望や意気込みだけで行けるようなものではない。一年数ヶ月も職場を離れて仕事とは無関係な環境へ給料つきで行くということなのである。つまり私は職場に対してそれだけの投資をして採算がとれるような能力を私自身に認めよ要求したということであり、自惚れに舞い上がって身の程を弁えていなかったということでもあろう。
 聞いた課長は「分かった」とだけ言った。なるほどと考えたのか、それともこの若造何を血迷っているのかと思ったのか私には知る由もない。ただただ大学で勉強できる機会に挑戦したいとその時は思ったのである。

 税務署は年が明けると確定申告の繁忙期を迎える。個人の納税者も自分の一年の決算の提出と税務申告が3月15日と決められているので大変な時期になるが、それを受付ける税務署も相談などに訪れる納税者でごった返す時期でもある。国税局そのものは直接納税者の申告書や相談を受けることはないけれど、職員は繁忙の税務署へ応援に出るのが通例になっていた。2月中は主として地方の税務署、3月に入ると札幌市内の署への応援が普通であった。

 ある朝、国税局の所属する課の仲間から課長が呼んでいるので署の手伝いを中断して出てこいとの電話が入った。札幌市内での手伝いだったから3月に入っていたのだろう。多分この話だ・・・・、期待に胸膨らませ国税局へと急ぐ。
 正式決定は後日国税庁から連絡があるはずだが、とりあえず4月からの研修が決まったので気持ちの準備をしておくように、ただし正式決定が届くまでは誰にも話さないようにとのことであった。

 思いが叶った瞬間であった。少し雪融けが始まりかけている道路の記憶が今でも微かに残っている。そのまま税務署の手伝いへと戻ることにしたのだが、少しさぼって近くの喫茶店でコーヒーカップのぬくもりを両の手で確かめたことを覚えている。なんだか信じられないような奇妙な気分であった。

 かくして34歳になった中年男は、18歳で果たせなかった大学と称する未知の世界へと恐る恐る歩を進めることになったのであった。後日国税庁から研究を予定しているテーマ(このテーマについて論文を書くのである)と聴講で通う大学を東大法学部、東大経済学部、一橋大の中から順序を付して選択せよとの指示を受けた。これまで考えもしなかった東大もしくは一橋大の門が今私の目の前にその扉を開こうとしているのである(後日、聴講は東大経済学部に決定した)。

 4月、札幌駅には妻と幼い娘二人が見送りに来ていた。まだ青函連絡船の時代である。函館行きの列車が動き出した。デッキに立つ私に向かって上の娘が軽く走り出した。不意に涙が出た。「シマッタ」、そんな思いだった。後悔とは少し違うけれど、こんなにもわがままを通したこの選択が、もしかしたら間違いだったのではないだろうかと、どこかで心が訴えかけていた。しばらくは涙がとまらなかった。
 一年3ヶ月をかける論文の作成、そしてその中の一年間の東大経済学部における5科目の聴講と20単位取得を目指した挑戦が列車とともに動き出したのであった。

 聴講生は学生ではない。だからこの大学聴講は学歴としては何の意味も持つことはない。でも私は勉強したいと願い、その願いを叶えるべく新宿若松町の寮から東大の赤門(上の写真参照、経済学部はこの有名な門のすぐ奥にある)へと通うことになるのである。
 それは決して大学全入時代のような希望さえすれば誰でも入れる安易な選択ではなかったと、私は密かに、そして勝手に思い込んでいるのである。



                          2007.12.21    佐々木利夫


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私のくぐった赤門