「自治体の窓口では親子の年齢がかけ離れているなど明らかに不自然でない限り『本当に親子か』の真偽をチエックされることはない。それなのに代理出産の事実を明らかにした有名人だけは、出生届を受理されないというのは均衡を失してはいまいか」。

 この意見は、アメリカ人女性による代理出産で双子をもうけたタレント向井亜紀さんの提出した出生届を区役所が受理しなかったことについて述べた大学教授の意見である(朝日新聞 10.9 「私の視点」)。
 出生届を地方自治体が受理しなかったことについては両親から裁判が提起され、既に最高裁が向井夫妻と代理出産で生まれた子供との親子関係を認めないとする決定を出している(平19.3.26)。

 ところで代理出産とは何かを少し考えてみよう。不妊治療には様々な方法が考えられているが、本件で問題となった代理出産は正式な夫婦(正式とは法的に正式という意味、つまりは婚姻届の提出されている夫婦と言う意味である)による受精卵を妻以外の女性の子宮をへ移植し、その移植された女性が出産にまで至ったケースである。だから生まれた子はDNAによる限り正式な夫婦の子供である。そのことは科学的に見る限り何の疑いもない。

 申請者、つまりこの場合の正式な夫婦から提出された出生届を東京都の区役所が受理しなかったことを違法だとして訴えた事件で東京高裁は「受理すべき」として区の不受理を取り消す決定をした。その決定を不服として区が上告したのが本件最高裁決定である。

 最高裁は「現行民法の解釈では、卵子を提供した女性と子の間の母子関係は認められない」として親子関係を認めた東京高裁の決定を破棄し、その理由として「親子関係は単に私人間の問題ではなく、公益に深くかかわる問題であり、明確な基準で一律に決められるべき」とした。そして「現行民法では、出生した子を懐胎・出産した女性を母親と解さざるを得ない」と述べ、遺伝的事実よりも出産という事実のほうに母子関係を明確に関連付けた。

 こうした判断には賛否様々な意見があるであろう。遺伝的な事実関係も出産という事実関係もともに疑いなき事実として存在する。そしてそのどちらもが「間違いない事実」である。そうしたとき司法としてどちらを判断の根拠とするか、高裁と最高裁の判断の違いはまさにそこにある。両方の事実を承認した上で一人の子に二人の母を認める方法も考えられなくはないけれど、後述する様々な法律関係があまりにも複雑になってしまうだろう。生みの親、育ての親というのではない。実の母が二人いるということになるのだから。

 ただ冒頭に掲げた大学教授の意見は、なんだが駄々っ子の言いがかりみたいなものでまるで理屈になっていないような気がする。こうした理屈がまるで分からないというのではない。世の中にはけっこうこんな意見を吐く人が多いことを知らないではない。

 スピード違反の測定に引っかかって、「俺だけじゃない。前を走っている車をどうして捕まえないんだ」と息巻いたり、「大企業が何千万、何億もの脱税をしているのにどうして私のような零細企業が税務調査を受けなければならないんだ」と抗議したり、「万引きなんて誰でもやっているんだから見つかったら品物を返せばいいんだろう」と開き直ることなどがこうした言い分の系譜に入るだろう。

 多くの見過ごされている犯罪や違反などの事例がある中で、「特定人だけがピックアップされ排除されること」の理不尽さを責めるこの筆者の理論は情緒として分からないではないけれど、大学教授が新聞に発表する理屈としてはどうにもお粗末なような気がしてならない。

 日本は法治国家であり、特に犯罪や自由の制限などは罪刑法定主義が憲法にも保障されている(31条、39条)。そしてこれが法律の宿命でもあるのだが、「捕まってなんぼ」でもあるのである。殺人は死刑だと決められているけれど(刑法199条)、それは警察に捕まって裁判にかけられた結果である。捕まらなければ死刑になることはない。窃盗だって、詐欺だって、廃棄物の違法投棄だって、捕まらなければ犯罪として処罰されることはない。

 捕まらないで処罰されない者と、捕まって処罰された者との間にバランスがとれないことは事実である。脱税だって、捕まらなければ税金を追徴されることもなければ、時に査察事件として刑務所行きになることだってない。

 だからと言ってそうした「捕まらない者とのバランス理論」をもとに社会を動かしていったら、100%逮捕されもしくは把握される事件以外はすべて法的に放任されることになってしまい、100%と言う数値は理論的にありえないと考えられるから、結果的に法治国家の命題はそこで完璧に破綻してしまうことになるだろう。

 前にも述べたように私は筆者の言い分がまるで理解できないというのではない。「どうして私が・・・」の思いは、犯罪などに限らず例えば病気や事故、時には就職や受験や結婚などにだって常につきまとうものだろう。ただそれは「そうした考えが理不尽だけど実感なのだ」という意味でのみ是認される感情だと思うのである。

 ドラマなどの中や、または悶々とする病室のベッドの上での思いならなんの不自然もない。むしろ感情移入のできる実感でもあろう。
 だがこんな風に新聞紙上や公の場で、自分の意見として述べるような理屈ではないと思うのである。

 さてさてそれにしても、この代理出産の問題はどうなるのだろうか。遺伝子による親子の事実をどう考えるかは、これから更に複雑になっていくことだろう。不妊治療は単に代理出産に止まらず、人口受精やクローン生殖などの単性のみによる出生問題にまで波及していくことだろう。そして遺伝子判定は少なくとも親子関係を出産とは別なレベルで確実に認定することが可能である。

 一方、私たちは出産と親子関係をあまりにも当たり前のこととして考えてきた。考えてきたというよりは、それ以外については考えないようにしてきたといったほうがいいかも知れない。それは「親子関係は母親にしか分からない」ことを所与としてきたからでもある。

 親子関係は扶養、親権、相続など様々な法律関係を持っている。そしてそれ以上に「血の絆」とも言うべき法律関係を超えた肉親の情としての関係を持っている。親子だからなお一層憎しみあうというケースのないではないだろうが、そうしたことも含めて日本人の親子関係には特に「血のつながり」であるとか「情」の感情が強く支配しているといってもいいだろう。

 そうしたときに一番分かりやすいのが出産である。「父の詮索を許さず」はナポレオン法典における有名な認知請求禁止の規定だが、出産と母は結びつくけれど父とは必ずしも明確でないこと法的にも解決しようとした一つのあらわれかも知れない。

 だが出産した母にだって完全に子の父を個人として理解や認識することができるのかと問われるなら、ドラマや小説に影響され過ぎているかも知れないけれど、話がSFや人工授精などにまで及ぶなら不明なケース、不明であることが望ましいと考えられているケースなどはけっこう多いのではないかと思う。

 正式な夫婦の子が遺伝子的に親子関係にないケース、それが代理出産にしろ試験管ベィビーにしろ、正式な夫婦による出産以外の方法で生まれたと遺伝的に証明されるケースなどの親子問題は今後様々な様相を呈してくるかも知れない。それは昔ながら不倫を始めとして不妊治療や生命創造への科学的挑戦などを背景にして多岐に渡っていくことだろう。

 そうした時、親子関係をDNAだけに認めるのか、それとも出産という現在の形のほうに軍配をあげるのか、それとも両者とも承認するのか、更にはそれ以外の概念を持ち込んでくるのか・・・。
 親子関係の司法への要求は、親が子を我が子と社会的に承認せよとする場合だけではなく、子が親を拒否する場合にも認めるべきなのか、更には当事者の範囲を例えば卵子や精子を匿名で提供した者へも広げることでいいのか、提供した者はその事実をDNAにかかわらず拒否できるのかなどなど、複雑な問題を作り上げていく。

 ここまで書いてきながら、私にはまだ結論どころか意見すらもまとまらない中途半端の中にある。DNAに100%の信頼を置けるかどうかはまだまだ問題があるかも知れないけれど、それでも100%の判定は目前にあるといえるだろう。そうした意味ではDNA鑑定は一義的に親子関係を確定的なものにするだろう。

 ただそうした鑑定で証明できるのは単なる卵子と精子の結合というそれだけの事実でしかない。ミクロン単位の細胞レベルの受精という事実と、好きだと告白しプロポーズしそして結婚し、その結果としての生涯にわたる親子関係とはまた別異なものとして考えるべきではないかとの思いも、私には捨てがたいものに思えるのである。
 そうした意味では迷いながらではあるが、今回の最高裁の決定に私は賛成したいと思う。

 その上で、出産届を提出した両親の思いに対してなされた代理出産に親子関係を認めなかった最高裁決定は、出産と結びつかない親子関係を選んだ者の「選択のリスク」として捉えるべきではないのかと思ったのである。それは科学的な事実にどこまで法的な保護を受けられるかという「選択のリスク」であり、代理出産で生まれた子供の両親は、そうしたリスクを覚悟した上でまだ社会的に成熟していない新しい親子関係を不妊治療の一つとして選択したのだと思うのである。



                          2007.10.31    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



代理出産への躊躇