凸凹とは今から50年以上も前に一世を風靡した喜劇映画の主人公二人組の愛称である。凸凹コンビ、アボットとコステロの名前は私が小学生だった頃のアメリカ人喜劇俳優として余りにも有名であり、その名は未だに記憶の底に深く残っている。

 そのアボット・コステロコンビによるモノクロの喜劇映画を最近見る機会があった。と言っても映画館やテレビではない。古い映画の著作権が切れかけてきているのだろうか、最近のインターネットではいわゆる名画と呼ばれている古い作品などがけっこう無料で公開されるようになっきている。我が事務所のパソコンも光回線につながつているから、動画を視聴するには通信速度、画面の大きさなどなど、うってつけの環境である。

 ねちろん、そうした古い映画の記憶が私の中にあること自体、我が身にも著作権切れが迫ってきていることを示しているのかも知れないが、今日の話はそのことではない。

 見たのはこのコンビによる「凸凹猛獣狩」という映画である。どじな二人組みがダイヤモンド騒ぎに巻き込まれアフリカへ行って大騒ぎするいわゆるどたばた喜劇である。見ていて思ったのである。あんまりおかしくなかった。笑いを誘うような場面がなかったわけではないのだが、その場面がなぜかあまりにもわざとらしくて笑いを誘わなかったのである。

 アメリカの白黒映画の喜劇俳優であるコンビの名前を、物心もあんまりついていないであろう北海道の田舎に住んでいた子どもである私が覚えていたということは、少なくともその映画が私の住んでいた土地の映画館で数多く上映されていたということであり、それだけ日本人に人気が高かったということであろう。

 もちろん私が当時も今も日本人の代表であるとは金輪際言えないことだから、私が彼等の名前を知っているからと言ってその事実をもって多くの日本人にこのコンビの人気があったことの証拠にはならない。それでも映画館は人気のある映画を上映するために努力したであろうし、このコンビによる映画が何本も上映されたということは、このコンビの作品が日本人から高い人気を得ていたからだと考えてもいいであろう。

 そんな日本中を席巻したとまでいってもいいほどの映画を最近見て、ほとんど笑うことがなかったのである。私はここでその映画が笑えないほど面白くなかったことを言いたいのではない。映画の描いた笑いに反応できなくなっている自分に少し驚き、そして悲しくなったのである。

 犬や猿や猫の笑ったように見える映像を見たことがあるけれど、それでも笑うのは人の特権でもあろう。今の時代お笑い番組にけっこう人気が集まっていると聞いたことがあるし、一昔前には漫才がブームになったこともあった。

 でもこの映画に私は笑うことがなかったのである。恐らく、この映画が発表された時代、このコンビにこれほどの人気が集まったのは、映画を見た世界中の人たちみんなが腹抱えて笑ったからだと思うのである。そして笑い転げたのは私のような子どもだけではなく、きっと多くの大人たちだったと思うのである。

 笑いを感じなかったのは私だけの感覚の鈍磨によるものなのかも知れない。だがそれが、毎日繰り返される新しい刺激が私の持っていた笑いを感じる気持ちのゆとりをどんどんすり減らしていった結果なのだとしたら、私は大切なものを失ってきたことになるのではないかと思ったのである。
 それが私だけのことなのだとしたら、それはそれでいい。そうした感覚の鈍磨は私だけの問題であり、まさしくそれは自己責任として完結するからである。

 だが人は次第に刺激に鈍磨していく。同じ刺激を得るために麻薬がどんどん増えていくように、笑うこともまたより強く、より新しい刺激でなければ反応しなくなっていくのだとしたら、歌を忘れたカナリヤの悲しさは私だけの問題ではなくなる。

 この凸凹コンビの演じる笑いをいかにも見え透いた笑いであるかのように言い募り、いつの間に私は不遜にも反応しなくなってしまったのだろうか。数十年前の人たちが今より素直で純情で無垢な感情を持っていたなどとは思わないけれど、これしきのことにすら笑うことのできた感情を、少なくとも私は消しゴムでこすり、砥石で磨き、ヤスリで削ることで生きてきてしまったのだろうか。
 そしてそれを進歩だとか教養だとか社会化だとか成熟であるなどと称して我が身の成長や大人になることや歳をとることの中へと知らぬ間に糊塗してきたのだろうか。

 ドラマ「玉蘭」(朝日系、16日)に主演する常盤貴子のインタビュー記事を読んだ。この凸凹のテーマとはまるで関係ないけれど、その記事の中で彼女は「丸一日見ていた藤山寛美のビデオはきっと百年後の人が見ても笑える」(朝日新聞6.10)と話していた。

 人は100年後も笑い続けていられるのだろうか。人の生き様とは笑いを忘れることの上に成り立っていっているのではないのだろうか。だから人はしゃかりきに、新しい笑い、より強い笑いを必死とも言える形相で探し続けているのだろうか。



                          2007.6.10    佐々木利夫


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