「どんど晴れ」はNHKの朝の連ドラのタイトルである。4月2日から始まってまだ一週間少々だから、これから展開するストーリーの伏線としての必要がそうさせているのかも知れないが、ヒロインと結婚する予定の男の態度がどうにも不甲斐ないように感じてならない。

 男は盛岡で老舗旅館の大女将をしている祖母の長男の子である。父は恐らく後日何らかの形で出てくるのだろうが男が10歳の時に母を捨てて失踪、母は女将として仕事を続けるが若くして亡くなる。
 つまり男は両親のない形で現在は東京のホテルに勤務し、旅館は継がないことで女と結婚式間近である。

 7日のストーリーは諸般の事情で男は盛岡の旅館を継ぐことになり、結婚できないと女の家で両親ともどもへ告げる場面であった。
 ところが男はその家を出るまで、女にも両親にも「ホテルを退職した」、「盛岡の旅館を継ぐ」、「結婚できない」を繰り返すばかりであった。女も両親も始めて聞く婚約解消の宣言に戸惑うばかりである。「どうしてだ」と問いかける父親に対しても、男は「許してください」、「結婚できない」を繰り返すのみなのである。

 男を追いかけてその理由を尋ねる女に、男はやっと「実家の旅館を継ぐ」、「結婚相手は旅館の女将になれる人でなければならない」と告げるのみである。

 男だって色々考えたのだろう。考えたからこそ女の両親の前で己の決意を示したのだろう。だがそれでいいのだろうか。これが男の考えた最良の方法だったのだろうか。男には女を老舗旅館の女将として考えることなど思いつくこともなかったのだろうか。

 もちろんここで男の潔さを示してしまっては、女がこれから決意するであろう旅館での修行への覚悟、修行の辛さなど、ドラマ展開のおいしいところを取られてしまうという意味の分からないではない。
 だがどうもこの頃のドラマは本来その内実を理解している当人、それが加害者にしろ何らかの利害関係人にしろ、はたまたその事件にかかわった刑事や素人探偵にしろ、話が佳境に入るまで当然に知っていることについてまで黙して語らずと言った展開が多い。

 この物語だって、なぜ男が沈黙を続けているのか、それがこれからの展開にどんな風につながっていくのか、作者でも演出家でもない私にその真意を知ることなどできないけれど、それでも結婚式目前の男と女に起きた問題であり、その女の家族の前での男の沈黙である。
 嘘で相手を優しく傷つかないようにいたわる態度を求めているのではない。「嫌いになった」のならその事実を、他に好きな相手ができたのならその事を、会社をリストラされて今後の生活設計が成り立たなくなったのならそのことを、病に犯されて余命幾許もないと宣告されたのならその事実を、そのほかどんなことでもいい、結婚できなくなったのならその原因なり理由をきちんと相手に示すのが、人が人と付き合っていくうえのルールではないかと思うのである。

 そのことが時に相手を傷つけてしまうことのあることを否定するのではないけれど、それでもなんにも言わないで相手の知らない理由のままにしてしまうことは人としてのルール違反だと私は思い、そのことに男のどうしょうもない不甲斐なさを感じてしまうのである。

 このドラマは老舗旅館の女将になるべく苦労していくヒロイン物語だと聞いた。だからここで男に「女将になる道は険しいけれど、俺が守るから結婚してほしい」と言わせ、感激の涙をつぶらな瞳に浮かべながら頷く女の姿など見せてしまったら、このドラマのヒロインのこれからの苦労の見せ場がなくなってしまう、もしくは薄まってしまうであろうことを理解できないのではない。

 たが、ドラマを盛り上げるためとはいいながら、こんな男の態度が果たして許されていいのだろうかと思い、もし仮にそんなに薄っぺらな気持ちで男が結婚を考えていたのだとすれば、それこそこれから示されるであろうこのドラマの目的である女の決意そのものがなんとなく軽いものに感じられてしまうようで仕方がないのである。
 そうした女の意気込みは独りよがりの愛であり、もしかするとそれは愛ではなく男への執着、ストーカーの偏愛にもつながる感情ではないのかとさえ思ってしまうのである。

 そのして今日、女は男のアパートの前で約束もなく帰りを待つ。風邪を引いている男の世話を徹夜で焼きながら女はこんな風に言う。「私はいつもあなたの傍にいる・・・」。これではまるでストーカーそのものである。
 男は答える。「母は女将の苦労で死んだ。誰も死なせたくない」。その言葉は余りにも男の身勝手である。そうした思いを男が女に対する愛だと考えているのだとしたなら、とんでもない間違いである。現に男の父の弟の妻が女将として今の旅館を切り盛りしており大女将には隠居してもらいたいと手ぐすね引いているくらい女将稼業に執心していることからも、それ以上に大女将が旅館の経営を自分の責任だと理解していることなどからも女将の仕事が必ずしもその者を不幸にすることなどないことを如実に示しているからである。

 母の死が女将稼業にあったかも知れないからと言って、男はその旅館を継いだとして結婚して女将となった女性は必ず死んでしまうのか、不幸になると運命付けられているのか、そしてそれが主人公の女なのか。それを女に相談することも伝えることもなく、勝手に「女将になることは不幸になることだ、それが私の信念だ」とばかりに女に沈黙のまま己の考えを強要する、まさにそれは男の身勝手な独断である。愛でも信頼でもない、単なる妄想である。

 これから物語は女と現在の女将を中心とした旧経営陣との確執の中で進んでいくのだろうが、今のところ女の男に対する姿勢はストーカー行為そのものであり、つくづくと純愛とストーカーの偏愛とは分かり難いものなのだと妙に実感しながら見ている。

 とは言いながらこのドラマの終わる8時半が事務所へのスタート時刻である。時計代わりのドラマと皮肉られてはいるものの、たしかに朝の重宝な時計になっている。9月までの半年間、ゆっくりお付き合い願うことになるのだろうが、相手に愛されているとの勝手な思い込みとひたむきな純愛とはどこが違うのだろうかと、しばらくは私の混乱が続きそうである。



                          2007.4.11    佐々木利夫


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     男の甲斐性なさ