臓器移植が話題になり始めた頃、私も人並みにドナーカードを手に入れた。そのカードはいまでも事務所のすぐ手の届くところにあるのだが、カードとして存在しているだけでサインもなければ移植する臓器の表示もしていない。
 焼き鳥屋で仲間と飲んでいるわけじゃないんだから、心臓だの肺だの肝臓だのに○印をつけるというのはどこか気になるものがあるからだろうと最初は思っていた。
 だが最近は別の意味でこのカードの臓器の種類に○印をつける行為になんとなく躊躇を覚えるようになってきたのである。

 だからと言ってドナーカードの制度そのものに反対と言うのではない。むしろ納得できるシステムだとすら思っている。骨髄バンクやアイバンクなども含めて、移植による治療を必要としている多くの患者がいて、しかもそうした移植以外では治療不可能であり、現に移植の機会のないまま生涯を終えていく人の存在を見て見ぬふりしようとしているのでもない。

 ドナーカードは脳死を前提とする制度だが、脳死を死と認定することに私はそんなに違和感をもっている訳ではない。脳死とは脳の死(大雑把過ぎるかも知れないが人格としての死と言う程度の意味か)と臓器の死を区分するということにある。しかしながら脳死と臓器の死とはそこにタイムラグはあるにしても連続しているものとして捉えるという背景があることは容易に理解できる。

 そこのところに私はどことない躊躇を感じるのである。つまり臓器移植の意味するところは臓器がまだ生きていると言う前提にあるから、この前提が崩れてしまうこと(つまり臓器が死んでしまうこと)はとりもなおさず移植そのものの否定につながることを意味していると考えてもいいだろう。

 だとすれば脳死状態にある人間の体内に存在している臓器にはでき得る限り長く、(少なくとも移植を望んでいる患者に移植手術が行われるその時まではきちんと)生き続けてもらう必要がある。その手段としてはそんなに私に移植に関する知識があるわけではないので断定はできないけれど、多くの場合人為的に血圧を上げる注射をすることなどで臓器への血流を良くし、少しでも臓器の死を遅らせるように努力すると聞いたことがある。このことは恐らく移植の目的から言って当然のことだろう。

 そうすると、臓器移植をするかしないか(極端に言ってしまえばドナーカードを用意するかしないか)によって私の死に方に違いが出てくることになる。それは、生物としての死というのとは別に気持ちの上での「静かな死」、「騒がしい死」の違いである。

 「死に目に会う」という言葉がある。いわゆる家族などが臨終に間に合うかどうかと言う程度の意味で使う日常的な言葉ではあるが、例えば私はこんな場面を考える。

 老人が自宅の布団に入っていてその前に往診の医者一人と看護師一人、その周りを数人の家族が心配そうに取り囲んでいる。うっすらと目を開けた老人は、聞こえるか聞こえないような声で「ありがとう」と呟いて目を閉じる。腕の脈を確認しながら医者が「ご臨終です」と告げる・・・。いわばドラマ化された古典的な日本人の死の場面であると言われればその通りである。

 もう一つの死を考えよう。病院の立派なベッドの傍らを医者や看護師数人がバタバタと走り回っている。どうやらベッドの上の病人に危機が迫っているらしい。病人には口にも腕にもたくさんのチューブがつながれていて、枕元では電子機器が患者の脈拍や血圧やその他の数値を緑色の波形や電子音と共に時々刻々と表示している。あわただしい医者の動きを邪魔しないように家族は部屋の外か場合によってはガラス越しの別室でそうした状況を見守っている。

 突然医者から別室に呼ばれた家族は患者が脳死の状態であること告げられる。そして本人の希望(つまりドナーカードの存在)があるとの理由で臓器移植についての今すぐの承諾を求められる。それはそうだろう。脳の死と臓器の死とは連続しているのだから。もちろんそうした間にも言葉として適切かどうか分からないけれど、脳死、つまり人としては死んだと判定されているにもかかわらず臓器の新鮮さを保つための治療じみた行為は続けられている。脳死である、人工心肺につながれた肺も心臓もまだ動いている・・・。

 私は脳死を否定したいのではない。心臓が動いていて仮に肝臓も腎臓も機能していたとしても、脳死が人としての死であることに疑問を持っているのではない。
 まあ、話としては奇跡みたいな黄泉からの生還もないとは言えないのかも知れないが、そこまで生に執着したいとも思わないし、仮に生き返ったところで健康だった以前のような人生を続けられることなど不可能だろうから、現在の科学水準での脳死判定に疑義を挟むつもりは毛頭ない。

 恐らく自宅の布団の上での臨終宣言の死も、後者の判定による脳死も結局は死に違いはない。死に行く者にとって見ればどちらの死を宣言されたところで死は死である。
 ならば死後の臓器を他者のために提供してもかまわないではないかと思わないではない。

 だが死が騒がしいのがどうにも気になるのである。死ぬのは私なのだし、臨終にしろ脳死判定にしろ死に行く者にその違いの分かるはずもない。臨死体験の中には自分の死を外から眺めているというものもあるようだが、そのことを信じているのでもない。だから私の抱く死の感覚は、臨終の意識の薄れていく者の実感としての死ではなく、現在の私の理解しているとりあえず健康な者の想像としての死である。

 そこに死への感覚の大きな違いがあるから悩むのかも知れないけれど、そんなこと言ったってドナーカードに○印をつけるのは今の私なのである。死を必ずしも十分に理解できないままで記入しなければならない私だけのカードなのである。

 だから「お前は死んだのだ」と宣言されているにもかかわらずそこで終わりにならず、ガチャガチャと私の周りを医者や看護師が走り回り、移植のために必要なのかも知れないけれど注射を打たれたり点滴をされたり、挙句の果てはまだ生きているとされる内臓を切り裂かれて取り出されるそんな騒がしさに、どうにもやりきれないものを感じてしまうのである。人生の終わりがそんな騒々しい状態なのはご免だよなと、ふと思ってしまうのである。

 白紙のドナーカードが今も目の前にある。その意味も十分理解していると思っている。だがそんなわけで恐らくもうしばらくはこのまま未記入の状態が続くのではないかと、どこかで優柔不断の後ろめたさを身の裡に感じながらウロウロしている自分に少し戸惑ってもいる。



                          2007.2.22    佐々木利夫


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