明けましておめでとうございます。いいお正月を迎えられましたでしょうか。

 元旦なんて特別に名づけたところで所詮は12月32日であり、13月1日にしか過ぎないなどと、けっこう皮肉っぽく考えていた頃もあったけれど、どこかで一年を区切って過ぎこし方や我が身の行末に思いを馳せるのも、それはそれでいいじゃないかと考えるようになってきている。

 それにしても昨年は年の初めにこれからの一年は毎週2本のエッセイをホームページに発表しようと密かに思いついたこともあって、そのことにずーっと引きずられた一年だった。

 月曜日を更新日と決めて、何となくホッとしているうちに、火曜日、水曜日とすぐに時は過ぎていく。木曜日頃になると何とか次回作品の骨格だけでも作ってしまわなければと、締め切りに追われるような気になり始める。

 エッセイのネタは自宅の枕元、事務所の机の上など、用済みのコピー用紙の裏を使って鉛筆で数行乱雑に書いたメモが数十枚も溜めてあるので、見かけ上はそれほど不自由はないような気がしている。使い終わったメモは大体その場で捨ててしまうから、残ったメモは未使用のアイデアであり、呼び方によってはまだ宝の山が残っているとも言える。

 だからそこから勝手に選んでイメージを膨らませていくだけでいいと思うのだが、これがなかなかどうして膨らんでいかないことが多いのである。
 起承転結の文章構成にそれほどこだわるわけではないのだが、それでも完結した一つの作品なのだから「一応の結」がないと、落語の落ちが抜けているようなもので、どうしても文章にしまりがなくなってしまう。それでなくても気ままでノー天気な雑文である。「一体これは何だ」、「結局お前は何が言いたいんだ」と自分で自分を責めるような気になって落ち着かないのである。そもそもはっきりした「結」を内包していないようなメモは、そこからイメージを膨らませていくこと自体がとても難しいのである。

 かくして机上のメモ数十枚はメモのまま、膨らむでもなく、かと言って捨てるに捨てられずに積み重なっていく。時に別の作品の「転」の部分に使うこともないではないのだが、そもそも膨らむ要素の少ないアイデアは「転」そのものとしてもあんまり魅力あるものにはなってくれない。

 かてて加えて毎週二本の更新は勝手に自分で自分に課したものだし、誰に義理立てする必要もないのだけれど、自己負荷というのは思ったより自分を拘束するものである。
 金曜日が過ぎ、何の仕掛品もなく、メモを眺めてもどうも気が乗らない。そろそろ焦りが見えてくる。時に二本仕上げることもあるのだから一本を残しておけばよかったとも思うのだが、三本を一週間で書き上げるというのは物理的にも難しいし、二本発表という自己負荷のプレッシャーは思ったよりも強力である。

 時には強引に作り上げた二本の作品の中には、もう少し練ってから発表してはどうかと思うもののないでもないのだが、土曜日は最終仕上げ日、そして続く日曜日は関連する目次のページへの掲載やそことのリンクの作成などに費やす必要がある。そして月曜日、そのままホームページへ載せてしまうと結局在庫ゼロの新しい月曜日を迎えることになるのである。

 しかもホームページへの発表は私の本業ではない。そんなに熱心だとは必ずしも言えないのだが、これでも自宅以外に事務所を設けているれっきとした(?)税理士稼業である。それが仕事だとは言いながら、目まぐるしく変る税法やその取り扱い通達などにも気をつけていかなければならないし、いくつかの専門誌にも目を通さなければならない。
 場合によっては昼寝だって貴重な時間の過ごし方の一つだし、撮り溜めしてあるビデオの鑑賞だって大事な我が時間の過ごし方の一つでもある。時にはこの事務所は仲間とのサロンとなり、居酒屋にも変身する。

 しかしながらそんなことを繰り返していると、例えば作成に時間のかかるようなエッセイにはどうしても疎遠になってしまうのである。
 たとえば私のホームページにおけるライフワークとも言うべきテーマに源氏物語と忠臣蔵がある。これらについて発表するということは、そのための資料を探したり読んだりして作品の構想を自分の中である程度暖めるという準備がどうしても必要になるのである。それなくして作品の完成などあり得ないのである。毎週の更新と言う自己負荷は、そのための時間を自ら奪うことでもあった。

 源氏物語は前回の発表から既に一年数ヶ月を経ているし、忠臣蔵にいたってはもう三年を超えた。テーマがないのではない。源氏物語の女性についてだって、まだ一番基本となる「紫の上」や源氏物語そのものの伏線となる「桐壷の更衣」についてもまだ手付かずのままである。忠臣蔵についても、義士の陰に隠されて卑怯者呼ばわりされている筆頭家老でありかつ城明け渡しと言う基本的な作業にかかわった「大野九郎兵衛」についても興味津々であるし、そのほか四十七士から外れていった多くの浪士にも触れなければならないと思っている。

 新しい年が巡ってきた。「一年の計は元旦にあり」は既に言い古された言葉だが、昨年の反省を実践する機会でもある。どんな一年にするかを決めることは難しいが、したいと願うことは可能だろう。
 たやすく実現する願いも願いなら、届かぬ高望みもまた願いだろう。元旦の願いと言ったところで、元旦そのものに霊験があるとは思えないから結局は自らの意思を信じるしかないだろう。
 老いたこの身に叶わぬほどの大それた望みを抱くわけにもいくまいが、今日からの365日、それなりに自分に言い聞かせてみようか。

 そはさりながら一番の気がかりは怠惰である。私のつたない経験からすると、忙しいときのほうが充実した時間がとれるのである。
 現役時代、国税局での勤務はとてつもなく忙しかった。日曜日は休日と言うイメージではなく、「あぁ、また明日から月曜日か」と思うような、そんな仕事、仕事の繰り返しであった。本も読みたい、音楽も聴きたい、税法の解釈についての論文も書いてみたい・・・・、残業さえなかったらどんなにか充実した自分の時間が取れるだろうかと思ったものだった。

 それでも考えてみると、そうした忙しさの中で、十分とは言えないまでもそれなり自分の思うような時間を取ることができたのである。「忙中閑有り」はそれなり真実だったのである。
 そして人事異動で国税不服審判所と呼ばれるセクションに勤務した。ここでは比較的定時退庁が多くなった。ゆったりとした時間が自分のものになるようになった。だからと言ってその時間をそれまで願っていたような、それこそ自分で納得できるように使えたかと問われれば決してそうではなかった。

 人は忙しいときのほうが、仕事だけでなく自分のための時間も取れるのではないか、そんな気がしているのである。「小人閑居して不善をなす」は、不善の意味はとも角として少なくとも無為に過ごす時間の多くなったことは現実であった。
 暇になると人は碌なことはしないことは、身をもって知るところでもあった。

 まあ、この年になってみれば、無為もそんなに悪いことじゃないのではないかと感じているのも事実である。人生、何もしゃかりきに生きる必要もないじゃないかと、これまた元旦から怠惰宣言みたいになってしまったが、2007年の幕開けは晴れの穏やかな天気に恵まれました。
 昨年に続き女房と連れ立って事務所近くの琴似神社へ初詣に出かけてきました。鳥居から落ちる日差しに融ける滴の下ををくぐり、その足で事務所に出てコーヒーで一息つきながらこの一文を加筆しています。穏やかで暖かで、ともかくも良いお正月です。



                            2007.元旦    佐々木利夫


                  トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



一年の計は元旦にあり