飲み会が終わって自宅に戻ったときにイモリの研究を紹介しているテレビ番組を見た。真夜中に近かったしかなり酔っていたのでしっかりとその内容を覚えているわけではないけれど、概要こんな話であった。

 ある細胞(恐らくイモリの細胞)に特殊な化学薬品を一滴加えたところ、その細胞は神経細胞に進化したというのである。そして二滴なら膵臓だの肝臓になり、三滴なら心臓の発生が見られたというのである。

 発生生物学とは生物の個体発生を研究する学問である。基本的にはカエルの子はどうしてカエルになるのか、どうしてカエル以外にはならないのかを研究するものであるが、広義には再生機能(失われた身体の一部が自然に発生してくること)に関する研究も含まれるとされている。
 最近は遺伝子の本体であるDNAを操作する技術が開発されてきていることに伴い、遺伝子工学の分野へと急速に進んでいっているらしい。

 このテレビ放送の中の講師は、こうした臓器発生に伴う倫理の問題、つまりは部品としての身体の一部を人工で創りだすことであるとかそれが命の問題につながることなどについて一生懸命言い訳をしていたような気がしているが、どうもその点についての記憶は遠く忘却の彼方である。

 人は神様ではない。人がこうした生命の領域に踏み込むことを単純に拒否したり、危険視する意見も多いけれど、そうした考え方を一概に否定したいとは思わない。極端な言い方になるかも知れないけれど、神になろうと思う人間がいたところでそのことをとやかくは言うことはないのではないかとも思っている。神を創ったのはまさしく人間だと考えているからである。

 恐らく医術の歴史は遠い昔から命の問題であり、同時に呪術の問題でもあったろう。人はいつか死ぬ。だが生きている状態から死に至るまでには、即死の状態から老衰などによる緩慢な死まで様々な経過があるだろう。そうした不可逆な死に対する抗いの中には、死者を復活させようとする努力や技術、果ては祈りさえもが含まれるであろうが、病んだ身体に対する治療もまた命への挑戦である。

 こうした考えは今では多く呪術から離れてしまっているかも知れないが、医療もまた極端な言い方になるかも知れないけれど「放置すれば死ぬ」ことに対する、命への操作であることに違いはない。

 再生医学は最近の流行でもある。骨や内臓や皮膚などなど、不都合になったり失われた臓器をあらかじめ作成しておいたり後発的に作り上げたりして取り替えようとする技術が今では単なるSFの世界から現実のものになろうとしている。

 再生は生物として本来持っている機能でもある。我々の怪我による傷口が自然に治るのも一つの再生である。ただそうした自然治癒の限界を超えようとしているのが再生医療の目的である。
 熱帯魚の水槽などに自然発生(決して自然ではないのだが)して時に大繁殖することもあると聞く扁形動物プラナリアなどは1センチほどの体をいくつかに切り分けてもそれぞれが個体として生存していくのだそうである。つまりそれぞれの個体が頭や尻尾、そして心臓をや消化器官などを持つようになると言うのである。

 ギリシャ神話にキメラ(キマイラ)という動物が登場する。ライオンの頭、山羊の胴体、そして蛇の尻尾を持つまさに神話の生物である。同一の個体に異なった生物が継ぎはぎされているのだから、異なった遺伝情報を持つ細胞の接合を認めるという意味では、再生医療とは基本的に違うものではあろう。再生医療とはトカゲの尻尾切りの意味と同じである。己の細胞が再生する(させる)のである。生えてきた尻尾はそのトカゲ固有の遺伝子を持つそのトカゲそのものの尻尾である。

 キメラは神族に属し傍若無人な怪物として登場する。キメラの神話が人に何を伝えようとしているのか必ずしも理解できているわけではないけれど、結局はペガサスを操る英雄ベレロフォンに倒される。ベレロフォンはポセイドンの子とも言われている。結局キメラは人の手では始末できなかったと言うことでもあろうか。

 臓器移植には様々な問題が提起されている。恐らく医療はこれから臓器移植から再生医療へと質的に変貌していくのだろう。心臓や肝臓などの主要な臓器であるとか脳などにまで臓器の取替えが進んでいくにはまだまだ時間がかかるであろうけれど、皮膚や骨の一部などは現実のものになろうとしている。

 そうした再生医療をキメラ神話と並べてしまうのはとんでもない偏見だとは思うけれど、この歳になってくると老化であるとか命とはなんなのだろうか、死とは何か、生きているとことの意味などについて折に触れ感じさせられる機会が少しずつ多くなってくるような気がしている。

 「死」は多細胞生物特有のものである。単細胞の生物は分裂で永久に次世代(正確には次世代ではなく、同一世代の分裂ではあるが)を作るからである。その意味では生物は気の遠くなるような時間を経て単細胞生物は分裂で永遠の命を得、多細胞生物は個体としての死を承認する代りに子孫を残すという形で永遠の命を得たのだとも言うことができよう。
 そして今、我々は再生医療というまるで新しい分野に突き進むことで、こうした数十億年もかけて築き上げてきた進化のシステムをまさに変えようとしている。

 そしてこれがまた厄介なのだが、こうしてあれこれ書いてきていつもどおり思い惑うのである。「結局お前は一体全体何を言いたいんだ?」と・・・・・。
 キメラへの思いを理屈なきこじつけだと言われればそれまでである。ただ人が「不安を覚える」という事実に対しては、そんなにあっさりと拒否してはいけない要素が秘められているのではないかと思うのである。

 期待と不安とは互いに相反する思いだが、不安の存在とは「チョット待て」、「少しゆっくり歩け」と自身が警告していることの表れではないのか。だとすれば、そうした「ゆっくり」に影響されて、仮に助かるであろういくつかの命の研究が置き去りにされたとしても、それは正しい選択なのではないのか。

 ただなんでもかんでも神様を引き合いに出して、自分で解決できないと思えるような問題を全部「神の領域」へと押し込め、語ることも考えることも問題が存在することすらも封印してしまおうとする意見にもついていけないのではあるのだが・・・。



                          2007.6.15    佐々木利夫


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