「ホントのことを言え」は、テレビのサスペンスドラマにおける刑事の定番セリフだと思っていたら、最近実際に耳にして少し気になった。妻と子どもを殺害された夫の裁判経過に対する意見である。

 私はこの事件に対しては、せいぜいが新聞の拾い読み程度の知識しかないから動機や経過などについてほとんど知ることはない。だが犯人とされる人物は弁護士を通じてそれなりの意見を述べていることも報道されている。つまり検察官、弁護士双方の意見が出揃っているということである。

 それに対して裁判を傍聴した被害者の夫は、弁護士の主張する被告人の発言は嘘だと言い、「ホントのことを裁判で言ってほしい」とマスコミのカメラに向かって訴えるのである。

 前にも言ったように私にはこの事件に対する知識は皆無だから、被告人の主張が嘘なのか本当のことなのかを知る術はない。ただ、この事件に対する「ホントのことを言って欲しい」と言う夫の訴えも、テレビで見る限りきちんと事実関係を示した上での主張にはなっていないから、私の持っている知識とそれほどの違いはないような気がする。

 ところで、「ホントのことを言え」という発言は相手が沈黙しているか嘘を言っているかのいずれかに限られるだろう。ただそうは言っても普通こうしたセリフが出るのは相手が嘘を言っているという前提があっての発言だろうから、沈黙を続ける容疑者や被告人が相手だとはなかなか思いにくい。

 そうすると相手がどんな形にしろ何らかの供述なり陳述をしており、その話の内容に対してなされる質問者なり関係者の発言がこの「ホントのことを言え」だと言うことができよう。
 だからこの言葉の背景には、相手の供述が信じられない、もしくは偽りだとの思いがある。

 確かに刑事事件において自白偏重は冤罪を生む原因として憲法でも禁止されている(「何人も、自己不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」第38条3項)。
 しかしながら、そうは言いながらも犯人しか知り得ない事実なり状況もまた犯罪を立証する有力な手がかりとなる。

 こうした刑事事件における「ホントのことを言え」との発言と自白から得られる重要な情報の価値とを重ね合わせてみると、「ホントのことを言え」と言う発言の背景にはこうした発言をする者が、実は「ホントのこと」を知らないのだということが分かってくる。
 つまり犯罪を立証する証拠、もしくは犯罪にいたる経過や心理状態などを示す証拠が不足していることなどから自白によって何らかの証拠を得たい、もしくは補強したいという思いがそうした発言になったのではないかと言うことである。そしてここが問題なのだが、時にその思いは発言者自らが作り上げたシナリオへとつながってくる恐れのあることである。

 つまりは、「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法317条)にもかかわらず、その証拠が必ずしもきちんと集まらないという事実があり、それにもかかわらず目の前にいる容疑者が犯人だとの思い込みがあった場合に、この「ホントのことを言え」という発言が飛び出すことになることが多い。

 ここが問題である。そうしたシナリオへの思い込みがかつての拷問などと言った自白強要手段に結びついたのだろう。引用したように事実は証拠によらなければならないのだから、思い込みによるストーリーはそれが自分にとってどんなに合理的、そしてもっともらしく見えようとも、証明された事実とは異なるのである。だから、「ホントのことを言え」の意図は、発言者が抱く自分が合理的と考えている犯罪のシナリオに沿った供述のことを言っていることになる。

 そうした場合、容疑者の供述がどんなに「ホントのこと」であったとしても、質問者のシナリオに合わない供述は「ホントのこと」ではないことになる。だから犯人を追い詰めようとする刑事は、相手がどんなことを言おうとも、自分の思いこんだシナリオに合致しない自白は常に「嘘」であり、自分が作り上げたシナリオに沿うような意見になるまで、仮に容疑者が「ホント」のことを言ったとしても、「ホントのことをいえ」と相手を責め続けることになるのである。

 そうした状況はすでに刑事ドラマの刑事役の枠を超えて、例えば素人主婦探偵や弁護士役までが「私にだけはホントのことを言え」と相手に迫ることになり、そうしたイメージは少しずつ市井人にまで広がってきている。そしてそうした「ホント」の範囲は、いつの間にか犯罪事実などの分野を超えて、容疑者の心の状態にまで広がろうとしている。
 つまり「ホントのことを言ってほしい」とは、事実としての「ホントのこと」ではなく、犯罪被害者や遺族や傍観者などが自ら作り上げたシナリオに沿うと言う意味での「ホントのこと」であり、そうした人々の意図に沿うシナリオどおりの自白こそが「ホント」になるのである。

 だから例えば殺された家族は殺した者がその犯罪は過失だったとか殺意はなかったなどと主張したとしても、そんなことは頭から信じないのである。犯人はあくまでも悪逆非道でなければならないからである。間違って殺されてしまったなんて信じることなど到底できないのである。だから裁判で容疑者が過失を主張したり殺意を否定したとすればその発言は検証なしに「嘘」であり、だからこそそうした発言以外の「ホントのことを聞きたい」と被害者やその遺族は繰り返すのである。

 このことは当事者というか、被害者やその遺族の心情として理解できないではない。だがそれはあくまでも心情としてである。それを超えて取調べや裁判の場にまで広がってしまうことは誤りである。

 私はこうした状況が被害者やその家族の内心に止まる限り特に違和感はないつもりである。だがこうした「ホントのことを言え」の状況が、マスコミを通じて世間一般にまで広がってしまうことにはなんだかやりきれないものを感じてしまうのである。
 人は無意識に容疑者とされた人間に対して嫌悪感を抱きがちである。そして「言い訳は見苦しい」とか「罪を軽くするような発言は嘘に決まっている」と思いがちである。それはワイドショーなどの見過ぎからきているのかも知れないし、アナウンサーやレポーターなどの意見に無意識に影響されてしまうからなのかも知れないけれど、私には自分の中に勝手にシナリオを作り上げてそれに合致する答を見つけようとしているような気がしてならない。

 折りしも二年後の2009年から裁判員制度が始まって市民の裁判への参加が義務化される。また来年からは刑事裁判へ被害者や遺族が直接参加する被害者参加制度も刑事訴訟法の改正で実施されることになった。
 そうした「ホントのことを言え」の心情が、時に被害者の内心を超え被害者以外の人たちの犯罪事実の認定や判断にまで拡大していく恐れはないかと、私はどこかで危惧しているのである。



                           2007.9.20    佐々木利夫


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