今年も8月15日がきて、全国戦没者追悼式がテレビで中継された。そうした追悼式の意図も目的も分からないではない。だが「戦没者」と言う言葉の中に戦争で亡くなったすべての人たちを表してしまうことにいささかこだわりじみた気持ちを感じてしまった。
 「戦没者」を表明する天皇も総理大臣も、更には進行役や参列者の誰もがそうした言葉を繰り返す。ただそうした言葉の中に戦争をめぐる悲惨、絶望、別離、悔恨、苦渋、逃避、責任などなど、言葉で表せないほどの一切合財をまるごと押し込めてしまっているような空疎さを感じてしまったのである。

 第二次世界大戦における日本人の死者数には諸説あるようだが、軍人230万人、民間人80万人が当面信頼される数字だとされているらしい。途方もない数であり、それはまさに「数」として表すことすら及ばないほどの途方さでもある。そしてそれを一まとめに表すのが「戦没者」である。それでいいのだろうか。

 つい先月亡くなった城山三郎の「旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため・・・」で始まる「旗」は余りにも有名な詩だが、その中にこんな一節がある。
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  ひとみなひとり
  ひとりには
  ひとつの命

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 8月17日のマスコミはこぞってイラク北部モスル近郊で起きた同時自爆テロの死者を400人を超えると報じ、これまでの最大の死者数だと伝えた。戦争報道だけではない。今年のこれまでの北海道の交通事故による死者160人も全国でワーストワンになったと報じ、日本の年間の自殺者数もここ数年3万人を超えたと報じるなど、「死」を死者の数で表すことは今や当たり前になってしまったかの感さえする。

 そうしたことが分からないというのではない。事件を「死」の数で表すことに異論を唱えたいのでもない。「死」の数はそのまま事件や災害や危険の大きさ、つまり異常であることの大きさを示す明確な指標でもあると思うからである。ただそのこととは別に、「死」はやっぱり「ひとりの死」を根っこに持っていないと、どこかで間違った理解へつながってしまうのではないかとの感じがしてならないのである。

 生命保険などに使われている保険数学では、命は常にマスで考えられている。1000人の保険加入者のうち一定期間内に何人が死亡し、保険金受取人に対していかほどの保険金を支払わなければならないか、そのためには掛け金をいくらに設定する必要があるかなどを研究する学問であり、それを企業として活用したのが保険経営である。
 保険数学と言う名前だけは知っていてもまるで中味を知らない私だから、どんな計算でその割合が100分の1になるのかどんな場合に1000分の1と判定するのかなどを理解しているわけではないけれど、計算の対象である人は常に割合で死ぬことが前提とされていることくらいは分かる。そしてそのことに異論はない。

 だが、ひとりひとりが持つひとつの命に100分の1などを考える余地はない。ひとつの命に、そのうちの半分が死んだとか10分の1が失われるなんてことなど決してないからである。

 寝たきりで植物人間だと宣告されている人もいるだろうし、認知症が進んで他人との交流がとても困難な人もいるだろう。災害などでトリアージと名づけられているケースのように、助かる命、助からない命の選別がどうしても必要な場合だってある。そうした様々にそれぞれの命の質の違い、重さの違いのあることを理解できないではないし、それらをひっくるめて「命は等質だ」などと一まとめにしてしまうことにもどこか抵抗がある。

 それでも「一つの命」の集合としての100万の命ではなく、「個性の命」として理解することが必要になってきているのではないだろうか。
 世界中にはたくさんの死がある。平和で穏やかな死もあるだろうけれど、多くの死は理不尽なものだろう。毎日の新聞の「おくやみ」欄にだって北海道中の人の多くの死が報じられている。その全部と言ってもいいだろう個々の死の知らせは私にとってまるで無関係である。それでもその一つ一つの死は、たとえ死亡日と葬儀次第だけを知らせる数行の活字の羅列であったとしても、その活字の陰には間違いなく「個性の死」、「ひとりの死」が存在しているであろうことを私は感じる。

 第二次世界大戦による戦死者を「戦没者310万人」と一くくりで呼んでしまって、慰霊塔一本立てることでその中にまとめてしまうことにどこか了解できないでいるのは、それだけ世の中が平和になってきてその中にどっぷりと呆けたように漬かっている私の甘えが背景にあるのかも知れない。

 「どこか違うんじゃないか」、「なんか違っているんじゃないか」、戦争で死んだのは310万ではなく、父であり母であり、夫であり妻であり、わが子など愛するたった一人ではなかったのか、そうした割り切れなさの中に「ひとつのいのち」が310万人であることの圧倒的な重さが、どこかやりきれなく末恐ろしいような気持ちを引き連れたまま繰り返し訪れてくる。



                          2007.8.17    佐々木利夫


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