NHK教育テレビに「ようこそ先輩」と言う番組がある。著名人が出身母校の一クラスに出向いてテーマを決めて授業を行うのである。先日見た番組の生徒に対する課題が「一歩踏み出せなかったこと」だった。前日に課題を出された生徒たちが一晩考えて答を持ち寄り講師と一対一の面接で対話するというものである。

 子どもたちはみんないい子だった。ただ子どもたちの回答の全部が「あのときこうすれば良かったのに、その良かったことへの一歩が進めなかった」ことに、一人の例外もなく集中しているのがどうにも気になってしまった。

 例えば、「あの時に殴りたいと思ったのに、そいつを殴る勇気がなかった」、「相手に悪口を言いたかったのに・・・」、「思い切って盗んでおけばよかったのに・・・」などなど、一般的に「悪しきこと」と思われることに一歩進めなかったことなどがまったく話題になっていないのが不自然だと感じたのである。

 どこかでこの先生役の講師の気持ちの中に、「一歩踏み出す勇気」を求めようとしている無意識の願望があるから、そうした願望に生徒たちも呼応したのだろう。
 生徒の結果は当然に「これからは、勇気を出して一歩踏み出そうと思う」である。そうして講師は一々そうした生徒の前向きな返答に満足げに頷くのである。

 だがちょっとまってくれ。どうしたって「踏み出さなくて良かった」、「踏み出さない勇気」なんてことに金輪際触れようとしないのはどこか変である。

 法律用語になってしまうけれど、人の行動には「作為」と「不作為」の二つがある。ただ、この作為、不作為という言葉そのものには正義だとか善意はもとより、悪意や偽善などの意味だって含まれてはいないのである。作為とは何かをすることであり、不作為とはなんにもしないことである。作為が正義で、不作為が悪なのではないのである。

 つまり、ある行為の結果が正義ならば作為は正義であり、その結果が社会的に承認されないような行為であるならば不作為が正義になるのである。そんなことは誰が考えたって当たり前のことである。

 だがこの講師は進むことが正義だと子どもたちに無意識に強制しようとしてるのではないかと、どうにも気になってしまったのである。前向き、前進・・・、人はこうした行為に正義を見がちである。進むこと、挑戦すること、努力することこそが人生の目的であり、その努力の示し方がいわゆる一歩なのだと思いがちである。

 ところで、私のつたない経験からでは説得力に乏しいことおびただしいかも知れないが、進む勇気なんぞは割と気楽に発動できるのではないかと考えている。決断だ、勇断だと自らを鼓舞し他者からの密かな賞賛を期待することもあるなど必ずしも動機に不純な要素のないでもないが、猪突猛進、匹夫の勇などの言葉もあるとおり進むことにはそれほどの勇気は要らない。

 むしろ退却や諦めることや停止することの決断の方がずっとずっとエネルギーが必要であり、緻密な計算や作戦が必要であることが多い。このことは例えば「結婚はたやすいけれど離婚にはその何十倍ものエネルギーが要る」などと言われることとも共通しているのかも知れない。
 もちろん最後は「エイッ、ヤッ」と決めるしかないことが多いとは思うのだが、それでも「やらないことの決断」や「やっていることの断念」は前進することの何倍ものエネルギーが必要なことは理解できるような気がする。

 だから私にはこの講師の子どもたちへの教え方の中に、踏み出す一歩と同時に退く一歩も大切だと教える視点がないと、どこかで片手落ちでバランスに欠けた思いへとつながっていくのではないだろうかと思ってしまったのである。

 さて、こうして「踏み出す勇気」、「踏み出さない勇気」について書いてきて気になってきたことがある。つまり、そうした勇気の目標のいずれもが、「結果において正当もしくは善とされる目的」に対しての決断であるという点であった。踏み出す目標への正当性は当然ながら、山頂を目前にして引き返す勇気にだって引き返さなかったならば遭難したであろう結果を回避したという正論がある。

 だが、ある目的の善悪の基準を誰が知ろうか。メロスは友セリヌンティウスに向かって「私を殴れ。ちから一ぱい頬を殴れ。私は途中一度悪い夢を見た」と叫び、セリヌンティウスもまた「同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った」叫んだ(太宰治、走れメロス)。殴ることは暴力である。
 ジャンバルジャンはひもじさにパンを盗み、優しく泊めてくれた教会から銀の燭台を盗んだ。盗むことは犯罪である。つい先日、コンビニのアルバイト店員は万引きの少年を追いかけて刺されて死んだ。年10%、20%もの高配当につられてなけなしの退職金を出資し、元も子もなくした被害者と呼ばれる老人があちこちにいる。理不尽な仕打ちであるにもかかわらず沈黙を続けている人たちがいる。

 更には、一歩を踏み出さないことの中にこそ安穏で平安で争いのない生活を続けていくことのできる秘訣があるのだと頑なに信じ、そしてその通りに安らかな(と自分では信じている)人生を送れたと満足している人たちもいる。

 そして人は一歩踏み出したことにも、踏み出せなかったことにもいずれ後悔する。どちらを選択をしたにしろ、選択しなかったもう一方の結果を人は知ることができないからである。
 だから人の一生は後悔の塊でもあり、もしかしたらどちらを選択したにしろその選択したこと自体に対する自己満足でしかその選択を評価できないのかも知れないと、ふと思ってしまった。
 とするならばこうした後悔に対処するためには一つしか方法がないだろう。それはどちらを選択するにしろ、自分で決めることである。

 それにつけても最近の若者や大人の多くが悪しき結果に対する他人(ひと)任せが多くて、自分に不利益な結果はすべて他人のせいだとする風潮がはびこってきていることに、人は「自分で決断した」という主成分自負入りの特効薬さえも放棄してしまっているような気がしてならないのである。



                          2007.10.10    佐々木利夫

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